哀しくも深い話だと思った。 その瞬間、六蔵の心は自由に解き放たれたのかも知れない。
私は今、故郷である城山の麓の街に住んでいます。 時間に追われ、ストレスを抱え込む仕事を辞めて半月程。緊張から解かれた開放感と、たっぷり与えられた時間を、どう使えば良いのか? 複雑な思いが絡み合う日々を送っています。 帰郷して3年、両親の世話や仕事で、街を散策するゆとりも無かったなあと、久しぶりに母校から武家屋敷、城山へと足を運んでみました。 小説の舞台となっている下宿先から、武家屋敷の白壁伝いに続く道。城の名残の三の丸大手門横から、登山道へ、坂道が始まります。 新緑の季節、青紅葉の隙間から、こぼれ日が眩しい。時折止まっては、木々を見上げ、鳥の声を聞き、森の香りを吸い込みます。さわさわと風が通り過ぎて行きます。ゆっくりゆっくり足を運ぶこと30分、うっすらと汗を感じる頃頂上に着きます。 本丸から二の丸へ、西から東へ、石垣が囲みます。石垣からは、河から海への流れ、湾を囲む半島や島々、眼下に広がる市街地が一望出来ます。 彼はここで、空高く、自由に舞う鳥を見つけ、同じように羽ばたこうとしたのだろうか? この風景の中に身を置くと、確かに飛びたい、飛べるような気がしてきます。彼の気持ちが理解出来るのです。不思議な安堵感と共に。 幾度となく読んだ物語ですが、こんなに心の奥底まで染み込んできた事はありません。物語の舞台を歩くというリアリティか、自分の置かれている境遇からなのでしょうか。
六蔵に関する主人公の想像はきっと当たっているような気がした。
深刻な 知的障害のある 六蔵は 無類の 鳥好きであるけど すべてを 烏と言い張る。 こうじて 自分は翔べると 思い込み 城の石垣から 墜落し 死ぬ。 六の 魂の鎮魂が 込められた 珠玉の 作と感じた。
白痴が文学のモチーフになることは少なくない。ドストエフスキーや坂口安吾、谷崎潤一郎などがまず思いつく。私の小学校時代もクラスに一人いた。先生も生徒も特別扱いしなかった。いじめられっ子にいじめられていた記憶がある。度が過ぎるとクラスの優等生が止めに入る暗黙のルールがあった。白痴をいじめる子もガキ大将からはいじめられてた。自然界の食物連鎖のようだった。子供社会のヒエラルキーは完全に形成される。それを差別というなら、白痴に対し、特別学級にて保護という名の隔離教育が必要だった。 一般の中での差別と一般と特別との差別と何が違うのか? ブス、ゲス、貧乏、病弱、白痴、何を争うんだ?親を怨むか?神を恨むか? 全て運命じゃないか! 来世はきっと・・・○○な人生を送れる。 惑・迷があるから人は死ねない。生きるとは苦しい。絶望(死に至る病)。死ぬに死ねない。運命の下で生かされてる。 六さんは何故死んだ? 鳥は飛べて、人は飛べないのは差別だと思ったのか? この世に差別などない!きっと僕も空を飛べるはずだ!と思ったのか? 戸惑いはなかったのか!