「映画界手近の問題」の感想
映画界手近の問題
えいがかいてぢかのもんだい
初出:「改造」1936(昭和11)年8月号

伊丹万作

分量:約20
書き出し:だれかが私に映画界の七不思議を選定してみないかといったら、私は即座に四社連盟をあげる。そしてあとの六つはだれか他の人に考えてもらう。四社連盟というものの不可思議性については以下私が申し述べるところによっておのずと会得されるだろうと思うが、とりあえず私は自分の知っている範囲で四社連盟とはいかなるものかという具体的な説明から始めようと思う。四社連盟というのは松竹・日活・新興・大都、以上四社が共同利益を...
更新日: 2022/02/08
cdd6f53e9284さんの感想

終わりの三行が、なんとも意味深で衝撃的である。 なんたって、「日本映画史に拭うべからざる汚点を残した者」と非難したうえで「日本に映画のある限り、日本に映画人のある限り、永く呪われるべきであろう」と、もうこれ以上のレベルの呪詛はないというくらいの激烈な非難でこの随筆は結ばれている。 おそらく、当時の映画界、特に撮影所の現場には、純情一途の映画好きの活動屋なら幾らでもいたとしても、計算高くて小狡い山師タイプの策謀を凝らすような映画企業家は、いなかったからこそ、まんまと罠にはめられた伊丹万作は、この激烈な呪詛を吐かずにはいられなかったのだ。 では、その当事者は誰かというと、「しかし、私にもおおよその見当はついている。おそらくだれしもおおよその見当はついているであろう」、しかし、黙して語らずという、なんとも煮え切らない、あたかも不本意であるがという態度で稿を閉じてしまっている。だが、かえって、不自然なこの忖度が生々しい。その男はごく近くにいて、伊丹万作が遠慮して口を閉ざさなければならないくらいの勢力を誇っていたのだ。 もしそれが永田雅一なら、随分と皮肉な話しだ。「羅生門」1951と「雨月物語」1953の製作者としてヴネツィア国際映画祭でグランプリを獲得し、「地獄門」1954では、カンヌ国際映画祭のグランプリを得ている。 伊丹万作は、1946に没している。