終わりの三行が、なんとも意味深で衝撃的である。 なんたって、「日本映画史に拭うべからざる汚点を残した者」と非難したうえで「日本に映画のある限り、日本に映画人のある限り、永く呪われるべきであろう」と、もうこれ以上のレベルの呪詛はないというくらいの激烈な非難でこの随筆は結ばれている。 おそらく、当時の映画界、特に撮影所の現場には、純情一途の映画好きの活動屋なら幾らでもいたとしても、計算高くて小狡い山師タイプの策謀を凝らすような映画企業家は、いなかったからこそ、まんまと罠にはめられた伊丹万作は、この激烈な呪詛を吐かずにはいられなかったのだ。 では、その当事者は誰かというと、「しかし、私にもおおよその見当はついている。おそらくだれしもおおよその見当はついているであろう」、しかし、黙して語らずという、なんとも煮え切らない、あたかも不本意であるがという態度で稿を閉じてしまっている。だが、かえって、不自然なこの忖度が生々しい。その男はごく近くにいて、伊丹万作が遠慮して口を閉ざさなければならないくらいの勢力を誇っていたのだ。 もしそれが永田雅一なら、随分と皮肉な話しだ。「羅生門」1951と「雨月物語」1953の製作者としてヴネツィア国際映画祭でグランプリを獲得し、「地獄門」1954では、カンヌ国際映画祭のグランプリを得ている。 伊丹万作は、1946に没している。