大いなる幻影 を 畏怖する 心の 意味を 探り出すことは あながち 無駄とも思わないけど 綺堂の学識の背景には 民俗学▫迷信などが隠し味として仕込まれているように感じた。 その辺りが 文章の魅力に繋がると 思われる。
影踏み遊びをする子どもたちのいたずらに遭って以来気を病み己の影を恐れるようになった娘。ついには十三夜の月の美しい晩、許婚は女の影に骸骨を見る。 あっさりとした語り口であまり怖くは無い。それはそうと怪談や昔話の類はやはりこれこれこんな話がある、という構成が一番だなあと思う。口承の再生産。
シャミッソーの「影をなくした男」を思い出した。影が無いことで起こるエピソードだったと記憶するが、本題は逆で影があることで、その影を踏まれたくないと願う女の話。影を踏まれると寿命が縮まる、という迷信故。古今東西、‘影’というものは不思議な存在なのだと思う。女の影は骸骨にされてしまう。影踏み遊びの子供達に踏まれることはなくなるが、恋人も逃げ出し、ついには侍に切られてしまう。 影とは何か?私は影を「現実」と定義したい。独歩の「牛肉と馬鈴薯」ではないが、理想を求めれば必ず現実がついてくる。そう影のようにね。日常生活では、意識しない存在。現実逃避。夜の闇に逃げるのだ!