これが書かれた時代の一般的な考えだったのだろう。無論、時代が変われば考え方も変わっていく。もはや年齢や人生経験で評価が決まるものでもない。読者の選択肢は増え、共感出来る作品を愛読すればいいのだ。
背後にある人生観が にじみ出ており 生活感がうかがえるようなものが良いとする。 良き読み手にも ヒントとなる。 短編なんかと斬って棄てるのは やや 同感できない。 商業主義が ちらつくような気はすると思った。
小説を書く前に「人生観」を持て!という。それには、25才を超えなければならぬ、と。20才そこそこで、人生の何がわかるというのか?日常生活で生きてきた経験が必要と、いう。 一見正論のようだが、三島のような早熟の天才は別次元としても、果たしてその「人生観」というやつは、いつ芽生えてくるものなのか?菊池が小説を初めて書いたのは、28才の時だ、という。50才から見たら、20才も28才も変わらず、そんな連中に「人生とは」などと語られたくない、と思ってしまう。70才から見たら、50才の書いたものなど、等閑に付されるだろう。 しかし、20才の作品を20才の読者が読む時、初めて共感できるのではないか!もっとも、所謂「青春小説」という類いは、作者が学生時代を振り替えって書かれたものが多いので、その意味では菊池の意見も納得がいく。 拓郎は、今は人生を語らず、と歌っていたが、小生も何時になったら語れるか分からない。語る必要性を感じない人は小説家にはなれないだろう。
三島由紀夫は確か「花ざかりの森」を十七くらいで書いた、と記憶している。25才前に書いた小説は意味がないと菊池は言うが三島も否定するのか?天才は定義を凌駕する何かを持っているはずだ!何百,何千という凡人とは違うんだ。人生観を20才前で確立した天才がいてもいい。