遺書は私信の内か。作家全集には葉書文は手帳の記述等も収載される場合もある。これらは所謂資料。読者は資料から何かを読み取ろうとしている。
不倫が 自殺の 原因ではないと 強調するので 読み手は 勝手にもしやと思ってしまう。 もはや 読者の 思惑に 気をくばる 余裕もないほど 追い詰められていたとしたら いたいたしいと感じた。
文学的死などこの世にあるものか! と僕は思う。 高尚な自殺なるものは存在しない。 神がもし彼らを許すならば、神自体の誤謬である。 作家は良く自殺をするが、その意味だけで阿呆と言わざるを得ない。 芥川も自殺をした。 断じて許される行為ではない。 文学的死など決してあり得ないのだ! 死物狂いで生きて生きて、生き恥をさらすまで生きるのだ! 芥川は結局馬鹿だ! 所詮馬鹿だ! それ以外、何の感想もない! フザケルナ! いじめを苦に自殺する者にも同情はできない。恥だ!弱虫だ!卑怯だ! 逃げて逃げて逃げまくってでも生きる方がよっぽど逞しい。立派だ! 主体的に生きなければならない。 それは人間の義務だ! その見本を見せるのが、文学者の責務なのだ。 「生」の文学が少なすぎる。 それは、皮肉にも日本文学の「死」を意味する。
静かで、かつどこか荒々しさのある文章。最期まで芥川は芥川だったのだなぁと。
「遺書」か…。芥川はこの「遺書」が不特定多数の他人の目に触れることを理解して書いたんだろうな。他者の目が、芥川にとって強迫観念みたくつきまとってたんじゃないかな。それと、お母さんみたいに自分も発狂するんじゃないかっていう強迫観念もある。 それが「不安」 の正体だったのかな。
少なくともあんたみたいのに読まれるために書いたものじゃない。
ううん…