パウロは 至れり尽くせりの 悪口雑言を身に受けていたようで 風采は上がらず 訥弁で 長所と言うべきものはを見つけにくい人であった様 に 太宰は 創作している のである。 太宰自身も 友人も パウロも この 悪戦苦闘という点で 何やら 身につまされたので 思い入れは 殊の外 濃かった のではなかろうかと感じた。
暖かいんだかなんだか
この時代の文豪たち(というか文化人ならば、通過点である)は当たり前のように聖書を読んでいるから、まず神について、愛についての前提がある。 挫折するかどうか、根差すかどうかは人それぞれであるが、常識として目を通している。 ここが現代人との違いである。 まず現代人(僕も含めてそうであるが)は信仰を持ちたい、または持とうと思わなければ聖書に触れることはないのである。 あるとすれば、クリスチャンホームに生まれ読んで聞かされて育つ以外には、ほとんどない。 この時代による差は非常に大きいものである。 信仰の有無に依らず、文学として本物である聖書に触れるということは非常に価値観を形成する上でも重要であることを、また実感し、良い思いをした。 彼が、パウロについて考えていると、時代を越えて価値観を共有出来たことに、深く愛情を感じたのである。
聖書は読むべきか?