子規は 雪隠(せっちん)に火鉢を持ち込んだという。 あたれないのではと言うと 後ろ向きになるそうで その火鉢(ひばち)ですき焼きを 煮て食ったそうな。水魚(すいぎょ)の交わりか。
最初にこの文章を読んだとき、これが本当に漱石が書いたものなのかと疑った。 第一、軽妙すぎるじゃないか、漱石がこんなにくだけた文章を書くわけがない、という違和感だ。 しかし、少しずつ調べていくうちに、その疑問は氷解した、 単に、自分の先入観と勉強不足から即断してしまっただけで、ごく仲のよかった漱石と子規は、こんなふうな打ち解けたやり取りをしていたらしい。 試みに、漱石全集の書簡集(旧版でいうと14巻だ)を引っ張り出して見てみた。 最初の最初、明治22年8月3日付の子規宛の書簡にこんな軽妙な手紙があった。 《小生等最初は水口屋と申す方に投宿せしに一週間二円にて誠にいやいや雲助同様の御待遇を蒙れり楼上には曽我祐準先生将軍乎として鎮座まします者から拙如き貧乏書生は「パラサイト」同様の有様御憫笑可被下候(中略)どうにもこうにも駿河の国立ったり寝たり又興津、清見の浦は清むとても心はすまぬ浜千鳥啼くより外はなかりしが(ヤ、デン)といふ体裁》 文中の(ヤ、デン)というのは、浄瑠璃語りの合いの手のつもりだろう、書くうちに興がのってきて、文章がリズミカルになつたところで、思わず「ヤ、デン」とみずから合いの手を入れたというわけだ。 寄席好みの子規にしか通じない漱石の最大級の親愛の表出だ。 確か、落語の「三枚起請」の中にも、惚れた女郎から渡された証文が偽物だと分かり、悔しくて泣き言をいう場面で、思わず背後から仲間が「デデン」とチャチャを入れる場面があった。あれだ。 漱石自身がこの随筆の中で書いているが、正岡子規という男は、非常に好き嫌いの激しい人で、滅多に人とは交際などしなかった人だったのだが、なぜか漱石とは気が合った。 それは、ふたりに寄席という共通の趣味があったからだといわれている。 そういうことがあったので、ふたりは、書簡のやり取りでも、こんな感じで寄席の蘊蓄を披露し合って楽しんでいたのだ。 漱石は当初、講談に関心を持っていたのだが、それが徐々に落語へと移っていった。 それは、当時、江戸の流れを受けて硬直化していた落語を、明治の御代に合うように笑いを中核に据えて江戸落語を一新した当代の名人、三遊亭円遊がいたからだといわれる。 そして、もうひとりの名人が二代目柳屋小さんだ。 当時、夏目漱石がどういう落語の演目を聞いていたのか、あれこれ調べているうちに、究極にして衝撃的な「漱石VS落語」のエピソードに遭遇した。 《大正5年(1916)11月21日、漱石は、山田三良夫人繁子から頼まれて、繁子の妹江川久子の結婚披露宴に出席した。 新郎は辰野隆であった。 その日の午前中漱石は、「明暗」の第188回を書き、次の原稿用紙の右肩に189と書いた。 そして、夕刻より夫人とともに築地の精養軒で催された披露宴に出かけた。 披露宴には、三代目小さんが呼ばれていて、余興に「うどんや」を演じた。 荒正人が「漱石研究年表」の補足説明に記しているように、結婚式にちなんだものを選んだものであろう。 屋台を引いて夜の町を「な~べや~きうどぉ~ん」と流して歩くうどん屋が、仕立て屋の太兵衛の娘の婚礼帰りだという酔っぱらいにつかまる場面がはじめにある。 漱石は、小さんの十八番「うどんや」が好きだった。 小宮豊隆の回想によれば、牛込亭で小さんの「うどんや」を聞いて帰ってきた漱石は、酔っぱらいが管を巻くところを自分で繰り返して、笑いだし、止め度がなくなって、仕舞いに顔を真っ赤にしてしまったという。 漱石は、帰宅後、胃の調子が悪くなり、翌日から病床に臥し、容態は次第に悪化して12月9日に死去した。 したがって、小さんの「うどんや」が、漱石が生涯で聞いた最後の落語ということになった。 葬儀は12日に行われ、漱石が若い頃参禅した鎌倉円覚寺の管長釈宗演が導師を勤めた。 ちなみに、釈宗演も落語が好きだったらしい。 彼は、大正8年(1919)11月1日の夜、弟子に落語の本を読ませ、それを聞きながら永眠した。》 漱石が、その生涯にどれだけの数の落語を聞いたのかは不明だが、その生涯の最後に聞いた落語は、最も愛した小さんの「うどんや」だった。
飯の話から仲良しエピソードまで。ほっこりした。
なんだか切ないものですな
良いところも悪いところも含めてずっと付き合えるのは友達だからこそ。漱石と子規の関係は素敵だと思う。子規が漱石について語る文章があるのなら読んでみたい。
本当に親友だったんだなと思った