芥川の遺稿で、内なる声と自分自身との対話を描く。内なる声は天使だとか悪魔だとかデーモンだとか呼んでいるが、いずれにせよ自分の頭に響くもう一つの自分の声、誰もが聞くことのできる自分の声だ。それは内面化された世間の声、自身の独善的で傲慢・高踏だと見なされる態度への罵詈や、理性で抑えきれない激情であるかもしれない。芥川の作品中でも本作ほど芥川自身の感情、葛藤が現れているものはそう無い。最後に「芥川龍之介!芥川龍之介、お前の根をしっかりおろせ」と呼びかけるところは、芥川らしくなくとても印象的だ。ここには、作家芥川が隠してきた実人間としての芥川の思考が垣間見える。 ただ文学作品として完成度が高いかと言われればそんなことはない。芥川のものだからなんとか読めるのであって、名も知れぬ文学青年の作だと言われたらとても読めるものではない。これは結局作品などではなく、自殺の寸前に至るまで、これを回避し乗り越えていこうとする自己内の葛藤を、二つの人格に託して書いたもの、と言って間違いないと思う。他人が読むものとしては、そして芥川が書いたものとしては、あまりに自意識が強く出ている。 なんにせよ、ここには芥川を自殺へと追いやるものとして、女性関係における不誠実、それに金銭的な問題(歯車で親族を一身に背負う負担が言及されている)、この2つへの意識が見られる。けして芸術的な理由などではない。高邁な自殺ではない。ただ彼はこうした現実上の生活問題にうんざりしていたのは間違いあるまい。彼は自身を超人ではないと言う。そしてツァラトゥストラも最後まで超人であったかは分からないとほのめかす。作品としては稚拙であるかもしれないが、こういう言及には十分な価値がある。 特に好きな一節で、晩年の芥川にたびたび見られる考えであるが、僕には僕の遺伝が四分の一、僕の境遇が四分の一と、僕の偶然が四分の一と、僕の責任が四分の一ある、というのがあるが、こうした考えはいまだに社会の主流派には理解されないままである。芥川は自身を近代人だと言うが、現代人としても十分に進歩的だ。
自死する人の 本音は たとえ それが低俗な 動機でも 文章を書くの を 仕事としているので 取り繕い 格好をつけ 高尚な煩悶(はんもん)が 8分(はちぶ)の ようにしたがるのは ごく 普通で 当たり前のことだと 思えてしかたがないと感じた。
この話、すごく面白いですね! 3つに分かれてるうちの、 1つ目は言葉遊びしてるみたいで感心しました。 2つ目の、1つ目と真逆なのに否定してるのとか、 3つ目の自分に忍び寄る悪魔?との会話とか、 作家の葛藤とか、考えとか、思いのようなものが感じられて、読んでいて楽しかったです。
苦悩と恐れと…言葉にならない数多のものに怯え苦しめられた芥川の、鼓舞の一言。でも、それでも彼は独り立ってはいられなかった。
「或声」誰かわかったとき、芥川さんの宗教観や人間らしさが一気に湧き出てくる素晴らしい作品です
人となりが分かる作品ですね。誠実な人柄がでています。
問答が続き、そのなかで僕が自分自身と向き合っている気がしました。 多かれ少なかれ、人には考えの違いがありますが、同じような悩みをもっている人は結構いるのではないでしょうか。 私にはこの偉大な作者の考えていることが分かるとはとても言えませんが、この作品を読んで自分のためになったように感じました。