人生論の中で何故「死について」が幸福について、より先に登場するのか? 真っ先に考えるテーゼが「死」なのか?およそ、哲学においてはソクラテスの時代から、その「観念」は議論されてきたことだろう。 果たして、死が怖くなくなってきた、とは幸せなことだろうか?確かに、私の母も、今日では耳も遠く、言葉も出ず、寝たきりに近い。年老いて行くというより壊れて行くという表現が正しいと思う。痛みや苦しみさえ感じているか分からない、生ける屍、なのだ! 90才も近くなると持病は無くとも老衰という避けられぬ現実がある。母が、死にたくない、と生を望んでいるかは知らぬが、少なくとも生よりも死を身近にそして自然に受け入れられるはずである。その意味で、本人も家族も「幸福なんです!」(最後は椎名林檎調に)
私の40年前の原点です
人間の虚栄心は死まで対象となりうるほど大きい、という記述はなるほどと同意 人間が不死になったら自分だけは死んでやるというギネス的チャレンジをする輩が現れる SNS全盛の今日、連帯感を求め協調性重視の世間 個性は変人、変わり者という呼び名に変わる可能性があり排除される だから同じ体操着で手をつないでゴールする 子どもの虚栄心は例えば皆塾行ってるから、皆スマホやゲーム機持ってるから、パパお願い 「20歳の原点」という本に確か 原点は孤独になること、とあったような記憶がある 内容からも日記(ジュディ?)を唯一の友達として語りかけ、およそ一般の女子大学生とは同じではなくついに自殺してしまう 三木は老人になってようやく死が怖くなくなってきたと冒頭で言っている (しかし獄中死とは無念) 20才で自殺は三木はできなかったろう