note to a friend の予習として読みました。
冷静な筆致故に自分を客観視しているように見えるけど、恐らく死に魅せられてしまったのだろう。死ぬことに酔ってしまったのだろう。死生観は時代によっても個人によっても様々だ。僕は違和感や不可思議な感じを抱いて読むのがキツかった。
終が近いからこそ美しいと感じるということや、生きるために生きているのをなんとも哀しく感じるのには共感できた。 自分をある種の神とたらしめることをやめた瞬間生きるために生きる意味というのは崩れてしまうのだろうと思う。
自死は 多く衝動的なもの と思うけど、芥川は 計画的で くどくど説明するので なんだかなあと 思ってしまう。 普通 人は ぼんやりした不安だらけなのが 多数であろう。 自殺までも なりわいの 種にしてしまうので 犬死にとは言えず 慎んで 拝読する自分が 阿呆に 思えてくる。
明治・大正の文筆家は何故病むのだろう。そして、何故その果てには自殺してしまうのだろう。時代の大きなうねりの中で繊細すぎる神経が死んだから? 細胞の機能が全停止したかのような、淡々とした静寂が横たわっているように思えた。自らの「死」について語っていながら、どこか他人事のようである冷静で客観的な視点が存在するような。
読みながら切なくなりました。
この遺稿に出てくるマインレンデルが当時あまり知られてなくて、コレが発見された際、皆何かわからなくて困っていたと何かで読んだので「あ!これが噂のマインレンデル!」としっくりきました。ショーペンハウエルの弟子だそうで自死の様が良い感じらしい。家族以外に見られずに死に、家族にバレないように死ぬ。とても考えた自殺なんですね。病的な神経の世界で死と遊ぶ彼が神さまのように見えたけれど、最後の文で彼はあくまで人であるなと思いました。15歳の芥川も聡明だったんだろうな。
カタカナの人名が 多数でてきて、どういうことを著したいのか 知識がないので、わかりませんでした。 純粋に、死への準備をされているのだということが わかりました。 残念だけど しょうがなかったのでしょうか。