私も趣味で創作小説を書いたりしているので、共感できる部分がありました。特に、違う創作の中で作者の個性だか趣味だかで似たような人物が出来上がるのは私も一緒です。数十年後に私が死んだらすぐに夢野久作さんのところに行って、「貴方以外にも同じように感じる人はいますよ」と伝えたいなと思います。
股毛一寸六は 実在するそうである。 ①性格に ピッタリの 人物名。②風采が浮かぶもの。③覚えやすいもの。④迷惑が かかるので ありふれた実在名は 使わない。 隠居仕事ではなく 芸術活動と言う。
子供の名付けでも、創作の名付けでも大切なことに変わりはない。 作品の雰囲気を左右するぶん、後者の重要性を感じられた。
松子と清子なら〜のくだりで声を出して笑ってしまった。 真面目ながらも作者のユーモアが隅々まで行き届いた秀作
親戚の人が、 「人の名前には、その人の人生を表す力とか、意味が含まれているんだよ」 と言っていたのを思い出しました。 私自身は、物書きとして生活しているわけではないので、現実世界の人間に名前をつけるときと、小説に登場する人間に名前をつけるときとで、どうニュアンスや物の考え方が違うのかは分かりません。 しかし、作家さんが一つの作品を生み出すにあたって、名前ひとつに頭をひねり、納得できる名前に出会って幸福だと感じる姿を想像すると、まるで、一人の親の姿のようにも見えるような気がします。
ジャガ子、ポン子、バク子のくだりで思わず笑ってしまった。 今はインターネットで流行りの子供の名前もたくさん出てくるし、姓名占もすぐにできる分、もしかしたら創作人物の名前にかける思いというのも昔より薄くなってしまったかもしれない。
ほんとうにそうだなと思った。名前は大切。名前の漢字のもつイメージ、口から出したときの音のもつイメージ、そこに理屈ではない生理的ななにかがある。読者に与える印象のみならずその作品の進行までもを左右する。
わかる……!あるある! でも奇妙でおどろおどろしいイメージの夢野久作が、こんな親しみやすい主張をしていたのは意外だった。 もう一度登場人物の名前に注目して読んでみたくなる……!
夢野さんの作品は全部重苦しいのかと思っていたので人物の名前で悩む様子が面白く、少し意外でした。
夢野久作さんというと、ドグラマグラなど複雑怪奇な文章が多い印象でしたが、登場する人物の名前が決まらない!というとても人間臭い、リアルな主張で、大変楽しく読ませてもらいました!