3代鎌倉将軍の源実朝は、まあせいぜい教養としての日本史のレベルにおいては和歌にかまけた道楽将軍というようなイメージだったが、そういう題をとって美妙なる人格を構成せしめる太宰の技の巧みなことは、太宰小説の中でも屈指のもので、彼には人間失格のような露悪的な自伝的小説を書かせるよりも、こうした歴史小説など他人の物語を書かせる方が何倍も良かろうと思われた。キャラクターの造形もなかなか上手く、実朝、北条義時、公暁は面白くできている。と言っても、公暁だけは何か太宰自身が投影され過ぎているとも思われた、とすれば実朝は太宰の理想像のようにも見える。 戦時中に書かれたこの小説は、そのためか実朝の天皇崇拝的描写がよく描かれている。が、優美で厭世的な実朝は、天皇崇拝者であっても、好戦的人物とは言い難い。戦争などに明け暮れて、つまらないことですよと嫌味無く笑うような、そういう人物だ。 とにかく、話自体が面白い小説というわけではないだろうが、太宰のキャラクター造形と、他人の物語の書き方の上手さが見える、佳い物語だった。特に実朝自身の振る舞いが清らかで面白い。
源実朝を側近の回想のかたちで描いています。実朝が疱瘡に罹患してから亡くなるまでの話で、時々、史料として吾妻鏡が引用されています。亡くなった時のことは他の史料も使われていますが、史料は読みにくいので私はとばして読んでいました。 側近の語り手にとって、実朝は高貴で優しくて何よりも神聖な存在なので、読み手の私は絵巻物を見ているような、読んでいるようなそんな感覚を覚えました。 しかし、実朝を殺してしまう公暁についてはそれが一変します。公暁と語り手が対峙する場面がありますが、生々しく、荒々しく、感情がそのままあらわれるかたちで描かれていて、『右大臣 源実朝』の異質な部分でした。 実朝も公暁も自分の生きたいようには生きられないあわれさを感じました。
東鑑の引用が多く、その部分は読みにくかったが、若い近習の語り部分は読みやすかった。 語り部の近習の尊崇を一身に集める聖人君子実朝が聖から厭世感漂う人物へとの変化の過程が描かれる。 静謐さの中に哀しさが漂う。 その雰囲気が好きだ。