雙之川喜1941 寄り合い 所帯の 共同 脚色なので 与太を 巧に 飛ばすと あるけど 永年の 疑問の 謎が 氷解 したように 感じた。脚本家 同志の 掛け合い 漫才みたいに 面白い 与太が 連射 される ので 受けも 濃くなる という 背景 説明会を 開き 合点して しまった。
漱石の正岡子規への友情について、どこかに書いたことがあるのだが、その時、しきりに脳裏をよぎったのは、小津安二郎の山中貞雄への友情だった。 多分、ここに掲げられている小文を山中貞雄が書いた数年後には、出征先の中国大陸で戦病死している。 その戦死の報を知らされた日本の映画界のショックは、相当に深刻で、誰もが日本映画界の重大な損失と感じた。 そのことは、いまでも伝説として、現在にまで脈々と語り継がれている。 何故かといえば、彼はわずか5年のキャリアのなかで撮った作品が時代劇26本あるのだが、そのうち現存していて見ることのできる作品は、僅かに3本だけ、しかし、それがすべて、すこぶる付きの傑作ときている、いまに至る「天才伝説」がのこる所以だ。 そして、その三本とは、「丹下左膳余話 百万両の壺」「河内山宗俊」「人情紙風船」、これらの映画で僕たちは、先入観をぶち壊されるような、いままで見たこともない抱腹絶倒の丹下左膳に出会い、失意の男たちが、貧しく抑圧された弱者のために、巨大な権力に挑む絶望的な戦いに立ち上がる姿を見、そして、むなしく破れ去って、誰の記憶にも残らないような、まるで紙風船のような儚い人生の虚無感までも見ることができた。 誰よりも映画を愛し、誰よりも映画を理解したこの若き天才の夭逝を誰よりも悲しんだのは、小津安二郎かもしれない。