「運命にもてあそばれる」という言葉がある。 自分は、長い間、林芙美子の小説のタイプをそんなふうに感じていた。 特に、彼女の小説の中で描かれる男たちは、利にさとい割には意志薄弱で、そのくせ小ずるくて、なにかというと女にもたれ掛かってくるが、いざ女が苦境におちいるや、さっさと逃げ隠れてしまうような、そんな頼りがいのない弱々しく狡猾な男たちだ。 そして、林芙美子の描く女たちは、あまりにも無防備にそうした男に深く関わっていく。 時には、心から深く愛することもあるが、それは、彼女がそう思い込もうとしているだけで、冷淡な男が本性を剥き出しにして暴力に出たり、逆にこそこそと逃げ隠れてしまえば、そこに残されたものが単なる錯覚と、それから悪臭を放つ生々しい「肉欲」くらいでしかないことが彼女にも分かってくる。 しかし、それでも女は絶望もしないし、諦めもしない。 もし、彼女に失望があるとすれば、それは単に「あの男」に対してだけであって、これからまためぐり逢うかもしれない未知の男たちは、彼女にとってやはり「希望」なのだ。 かくして、彼女の男性遍歴は止むことなく、元気よく確信をもって続けられる。 タフな女は、そのタフな分だけ傷つくことにもなるが、前へ前へと突き進むことを止めない限り、彼女は倒れることはないという確信みたいなものが自分の中に兆してくるように思えてくる。 林芙美子の小説とは、自分にとっては、そういう小説だし、林芙美子の小説を愛した多くの読者も、おそらく、それをこそ愛したのだと思う。 この「淪落」という小説は、だから「ほとんど」そういう小説なのだが、もうひとつ別の「希望」が語られている点において異色な作品といえるかもしれない。 それは、彼女の意思に反して孕まされたお腹の子だ。 こんな自分が子供を育てるなど、到底自信がない、 当初は不安ばかりで、生むことに迷い、躊躇し、堕胎も考えるが、自分のなかに宿る命を感じる充実感に満たされていることも事実だ。 いままで彼女が、男たちに求めて得られなかった飢え(かつえ)が、もしかしたら、このお腹の子が充たしてくれるかもしれない、残念ながら、小説はそこまで描いてはいないが、妄想したくなる余韻に浸ることはできた。 タイトルの「淪落」が、主人公の彼女の、どこまでも希望のないネガティブな将来を暗示しているなら、お腹の子供は、彼女の人生の深刻なお荷物となってしまうのだが、そうは読みたくない思いが募ってきた、甘いかもしれないが。
終戦直後の混乱期に 田舎から上京した娘が いろんな職を転々とした 挙げ句に 妊娠する話である。 旅館に泊まるのに 自ら 米を持参する 場面があり 国民食堂に行くときも 米は 持っていかなければならないことも あったなと 思い出した。