漱石の没後、寺田寅彦の許に、漱石の熊本高等学校時代の同僚教師だったという人物から一通の手紙が届く。 熊本の同僚だというのだから、おそらく、かの地での思い出話でも書いてあるのかと思いきや、実は、漱石とは小学校を同じくした幼なじみで、書いてあることといえば、悪餓鬼としてふたりで組んで散々悪戯をした悪行の数々の思い出だ。 その後、長じて熊本で同じ教師として邂逅したのは、まったくの偶然だったと回想している。 読み終えたその手紙は、他の手紙とともに机の引き出しにしまい込まれた。 その後、寺田寅彦は病気になり、さらに震災にも見舞われ、研究室も建て替えられるなど、時が移り時節も変わって、ついにあの手紙も行方知れずになってしまった。 「ああ、貴重な資料だったのに、実に残念なことをした」と、このエッセイは締め括られている、 だから、タイトルも「埋もれた漱石伝記資料」なのだが、しかし、事態は思わぬ方向に動いていく。 そう、その前に、このエッセイで寺田寅彦が、手紙の差出人の同僚の教師を「Sという○物学の先生がいた。理学士ではなかったが」とぼかして書いているが、名前は篠本二郎、鉱物学者で、熊本高等学校で教えていたのは、鉱物、地学、英語だ。 校友誌などには、「朝、顔を洗わず、便所から出てきても手を洗わない」などと評された。 漱石は熊本県で高額納税者だったが、篠本二郎の方は、かなりの薄給だったらしい。 学歴が選科生で終わっていたからだが、ともかく理学士ではなかった。 寺田寅彦が、あえて、ぼかして書いたのは、それなりの配慮があったからだろう。 さて、話を「事態は、思わぬ方向に動いていく」に戻そう。 寅彦のエッセイが公刊されると間もなく、大学の理学部の人から分厚い手紙が届く。 その中には「寺田氏が机の引き出しにしまったという手紙なら、研究室を整理した際に自分が保管した」という添え状と共に、篠本二郎氏のあの手紙も同封されて寅彦宛てに届いた。消失は免れていたのだ。 その経緯と手紙の全文を、小宮豊隆が、漱石全集八巻の月報第2号(昭和10年12月)に書き残したので、いまでも全文を読むことができる。 しかし、小宮は、この手紙の全文を公開するに際して、語句の明らかな誤りや読点のほか、文意の前後するものを入れ替えただけで、それ以外の修正は一切施していないと、あえて言葉を選んで慎重に述べている。 逆の言い方をすれば、「修正をすべきと思われた箇所が多くあった」と読むことも可能だ。 その中には、こんな一文もある。 「失礼を省みず、正直なところを白状すると、篠本さんの話のあるものは、私には、少し面白く出来すぎている感がある。むやみに悪戯をするところや、鍛治屋の息子と喧嘩をするところなど、特にこの感が強い」 ぶっちゃけ、あんたの話は盛りすぎとちゃうのと、疑いの目で見ているのだ。 事実、読み進めると、どれもタチの悪い破天荒な話で驚くばかりだ、これではまるで、勝新太郎の映画「悪名」ではないか。 例えば、親が教師であることの威光をカサにきて、高慢に振る舞う女子に、ふたりして鉄拳制裁を加えるとか、日頃、徒党を組んで威張りちらしているグループの頭の鍛治屋の息子を、痛め付けるために抜き身の短刀を振り回して追い回すというのまである、その理由が「昔は町人だったくせに生意気な野郎だ」というのだから、「あの漱石が、いくらなんでも、そんなことするわけないだろう」と思うのも当然だ。 せいぜい本当っぽいのは、漱石が悪ガキに付きまとわれて、執拗ないじめを受けているところくらいだ。 なによりも、この篠本二郎自身が、つまらない難癖をつけて、神経の細い漱石を責め悩ませている。 夏目の祖先も篠本の祖先も共に甲斐の信玄の有力な旗本だったが、某重臣が徳川家に内通した時に夏目家が徳川の家臣になったのに対して、自分の祖先は勝頼天目山に生害せられた後に徳川家に降りて家臣となったのだと、ことあるごとにこの話をして嫌がる神経質な漱石を悩ませたという。 しかし、2018年、この篠本二郎の手紙の内容について疑問とする説が「西日本文化」486号に発表された。 執筆者は、くまもと文学·歴史館館長、服部英雄氏。 「その篠本は、一方で、自分は漱石と小学校同級であって、机を並べて勉強したなかだとも書いている。 だが実際には4歳も違っており、入学した学校も違っている。 ただのちに漱石が転校した先は、篠本がかつて卒業した小学校であった。 同窓ではあるが、同時期ではなく、同級でもない。 篠本が「漱石と同窓だ」といえば、聞き手が勝手に同級生と解釈するから、逆手にとったのであろう。 ほかの篠本証言も疑わしい点が多く、信頼はできない。 篠本の文章は広く引用されて、全集にも収録されているのだが、彼の友人を漱石に仮託しただけの創作である。」 この服部館長の論評のタイトルは《愉快犯·篠本教授の「証言と夏目教授のアリバイ」》、う~ん、こういう人って、いつの時代にも、いるんだなあ。 この心理を具体的な言葉に当て嵌めると「嫉妬」とか「ねたみ、そねみ」とか、「なんでもいいから目立ちたい」とか、「誇大妄想」だろうけれども、その後も、漱石の思い出みたいな原稿を他にも書いているようなので、漱石の虚の「悪ガキ像」がコロナ菌オミクロン株のように蔓延してしまったのかと思うと空恐ろしくなる。 だいたい、この寺田寅彦の「埋もれた漱石伝記資料」というエッセイの中でも、図らずも彼自身が、こんなふうに書いているのだから、まことしやかな見え透いた嘘を見破れなかったのかと、ちょっと歯がゆく残念な気がする。 「その当時夏目先生となにかと世間話をしていたとき、このS先生の噂をしたら、先生は「あー、Sかー」と言ってそうして口を大きく四角に開けて舌の先で下唇を嘗め廻した。そうして口をつぶってから心持ち首をかしげるようにして、クスクスとさも可笑しいというふうに先生特有の笑い方をした。そういうときに先生はきっと顔を少し赤くして何となくうぶな処女のような表情をするのであった。」 なるほど、なるほど。 漱石先生は、顔を赤くしたうぶな処女みたいに、篠本のことを、とても嫌がっていたのだ。 試みに、「漱石全集 総索引」で、同じ熊本高等学校で教師を勤めた小泉八雲については、13箇所にわたり言及していて、その敬愛ぶりが伺い知れるが、篠本某など、いくら探してもただの1項目も見つけられないことが、漱石がうぶな処女みたいに顔を赤くした回答だ。まあ、言ってみれば、嫌悪か黙殺かだが、その両方の可能性もある。 とにかく、それくらいのことを分からないでどうする、寺田くん! だって君は、門下生中、漱石先生からもっとも敬愛せられていたのは、みんなが知っとるがなもし。 森田草平は、「六文人の横顔」でこう記している。 「漱石先生の所謂門下生の中で、先生みずから生前ひそかに畏敬していられたのは、おそらく寺田さん(吉村冬彦)くらいなものであったろう。 あるいは、寺田さん一人だったと言い切った方がいいかもしれない。 この人にはどこか、もちろん全体としてではないが、その人柄に漱石以上と思われるものがあった。」
「先生が 手のつけられない悪戯っ子の悪太郎だった」 漱石の 幼なじみから 聞いたというから そういう面は 有ったかと 思われる。 面目躍如(めんもくやくじょ)の 作品として 思い当たるものもあると感じた。