三度目の読了。 読み終わるたびに、傍観者の、若き独り善がりを自らに見出だし、恥ずかしく思う。 悟空はいいなぁ。
出世といっても 河底から地上に 浮かび上がったに すぎない。 「わからないことを 尋ねようとしなくなることが 分かったということなのか? 前ほど 苦にならなくなった。」 これは 法師様の お蔭によるものかと 思った。
中島敦の悟浄出世は沙悟浄と師匠との問答話。あまり面白くない。
釈迦の入滅後に仏法の裔が迷い混んだ様々な思想を、物語という形で教えてくれる。作者の共用の深さに感銘した。
久しぶりに読み返してもやはり名作。 表示出来ない文字があることが悔やまれる。 儒家の家に生まれたが故の含蓄と懊悩が余すところなく描かれた中島敦の本体の投影であろう。 それが百年後の人々の心に語りかけるのだから感慨深いものある。 高校時代に習う「山月記」ばかりが彼の代表作に上げられるが、彼の性質を知るにはこの作品を読むべきであろう。
悟浄歎異よりも前の、悩める沙悟浄さんがあちこち弟子入りして「我とは何か」という哲学的悩みを解決しようとする。 色んな変人奇人に弟子入りします。 中島敦さんも色んなバリエーション考えるの楽しかっただろうな。
徳とは楽しむ能力 なんてステキな言葉でしょうか。難しく考えても、結局そこははずせないんだと。
沙悟浄が玄奘法師とその一行に出会う以前の物語でスピンオフとも言える作品だが、侮ることなかれ。この作品は中島敦の文体の特徴である見事に均整が取れた漢文調や耽美派の影響を受けたと思われる装飾を凝らした比喩、そしてユーモラスさが見事に染み渡る作品だと言える。 「山月記」や「李陵」といった北方の地を舞台とした敦の作品は誠に心に刺さってくるような悲しさや孤独、そして苦悩が描かれているが、この悟浄の物事の意味、生きることを問うて、悩む姿というのは実に滑稽である。しかし、おそらくこの作品の悟浄は作者自身の姿が投影されておるのだろう。事実、作者を主人公とした小説には悟浄のような苦悩がどことなく見受けられる気がする。また、登場人物は勿論、悟浄だけでなく、彼の悩みを打ち消すための遍歴の旅の途上で出会う妖怪や仙人も実に魅力的である。 尚、この悟浄出世の続編として「悟浄歎異」という作品があり(青空文庫でも読める)この作品が面白いと感じられた方は是非一読を薦める。