耳の痛い仁も、その辺にいるようである。昔も今も、話の分からん奴ばかり。
いくら金持ちの息子だからといって高校生が芸者がいる料亭に行くとはとんでもない。あまりにも傲慢すぎる。
子どもの頃に見た、芸者を大学生になって追いかけるなんて馬鹿げている。 20才近くも年上の女性の現在(いま)がどうなっているかくらい簡単に想像がつくであろう。つくづく馬鹿だ!
デカダン何て言うな。 理想小説家のつもりだと 太宰は 文句を言う。 その証左に 十年前 十二歳の時に一目惚れした芸者の浪にあい 泊まらずに 帰られた。嘲笑うがよいと言う。で お言葉に甘えて 笑ってしまった。
すぐ読める。
私小説かどうかは関係ありませぬ。 作品は作者から独立しなければ本物の小説家ではないと言っておきましょう。太宰という人物が女たらしのボンボンだったかは興味がありませぬ。 ただ彼が「私」という主人公にどんな役をつけたか、そしてその主人公を読者が受入るか拒絶するかだけなのです。 私はどっちかとお聞きになるのですか?そうでございますね、学生の分在で芸者を買うなんざ、百年早いとだけ申しておきましょう。しかも子供の頃に会った女が年を取らぬとでも思ったのでしょうか。理想主義者であることは間違いなさそうでございます。
太宰治の純で馬鹿げた青春は、確かにロマンチズムだ。
この様な、気取らない文学もあると知り、良かったです。
10年恋い焦がれて再開した女。 この再開がなんの意味をも持たなかったとしても 嘲るものか。
このくらい清々しく女好きをオープンにできたら、気持ちいいんだろうなぁ。