雙喜 相対死で 生きのこった 片割れには 取り調べの 警察官は 相手は 助かりましたよと 慈悲深い 顔付きで 告げることに してある 署の内規に なっているのかは 判らない。随所で 体験が 昇華した 気配のある 文章は 現実感が あると感じた。女と 共に 上水に 飛び込んで 失敗した 苦い 思いは あながち 無駄では 無かったと 感じた。命懸け。
つまらんかった。
「起訴さ。自殺幇助罪といふ奴だ。」飛騨のこの台詞で「現実」に引き戻されます。
自称 愚作者が 作中に 度々 顔をだし 自己弁護のような事を独白する。 相対死の 片割れなので いたたまれない気も 有るかも 知れない。 太宰は 画期的構成と うそぶく。 「海水が動いた。それだけのことである。」
ナルシストな面倒くさい男が自分の考えをああでもないこうでもないとこねくりまわしてじたばたする話。 なんでいつも傍らに好意を持っている女が居るのか?それは私が考えた設定だからと言われれば何とも言えないが。 ここまで弱い自身をさらけ出されるとしょうがないなと呆れつつも美貌も相まって可愛く思えてきてしまうのかもしれないな…ダメ男のぼんぼんって奴は…。
子ども向けの本ではないけど楽しんで読めた
最後の方の「この小説は失敗である」が気になりすぎて終盤の所が頭に入らなかった。 太宰治独特の表現と言えばそれまでだが、最後の最後でそれを言うか。
「あさましい存在」「道化」など太宰は屡々自らを卑下する。この作品もご多分に漏れない。 作中の、腹の内をすかされたくないのだ、という大宰の叫びに「道化」という存在な呼応して現れたのだろう。しかし道化をしての主張も、眼光紙背に徹する読者からは、勿論道化の存在と裏の作者の目論見を推察できる。そうして永劫に繰り広げられる道化の輪廻に嫌気が差したのだろう。結果的に小説家という存在が精々まやかしを作り出し、見事に目論見を看破される程度の惨めな存在に感じている。しかしやはりこう主張して、手の内を空かすこと自体も太宰自身には酷く苦痛のように見える。 しかし従来の作品通り作中通して、太宰の人間に対する観察眼・洞察力の鋭さ、深い考察力・表現力は目を見張るものがあり脱帽せざるを得ない。 寂寥感・ユーモア・心悲しさなどの黄金比率の組み合わせは太宰にしか無し得ない。 全体を通し、恐らくは太宰自身の独白・エッセイのような作品に仕上がっている。
読解するには、少し難しい作品でした。しかし、文章から見て主人公がとても魅力的な事はよく分かりましたし、実際こんな人間が居たならば、接して救い出してあげたい、とも思える作品です。最後の文章から「結局罪からは逃げられない」罪意識が消えることが無いというのも、また印象的です。
難解な作品。だが、美しい心を持って悪い文学を作った太宰治自身の照れが淡々と綴れてうて、解ってあげたいと、女心をくすぐった名作だ。
私には難しかった。通学中の電車で急いで読み進めたと言うのもあるだろうが、中々理解できなかった(残念ながら今もだけれど)。 しかしこの物語には確かに、登場人物同士の友情を感じました。 もう何度か読めば本当の良さも分かるだろうと思います。太宰らしい、小難しくて回りくどくて、少しキザな文章が癖になるのも時間の問題でしょう。 私はまだ、彼の作品を5~6つ程度しか読んでませんので、この機会にもう2作品は探ってみたいと思います。
メタフィクションであるがゆえに現実味をおびている。たった4日間、狭いフィールド、少ない登場人物で、これだけの物語がかけるのが現代になっても語られる彼の魅力だろう。さまざまなことを想像できるラストが好き。ただ、それだけのことである。
そうだ。愚作者は実のところ、かくも書き手の内面をあますところなく描き出した彫刻品に、惚れ惚れとしているのだ。しかしややもすればその高揚は、断崖の底に沈む羞恥と馬鹿馬鹿しさに取って代わられる。川端康成には物足りなかったかもしれないが、一般読者にとってはこの「真実味」の演出は、たいへんに心地よく、共感と虚栄心とを満足させてくれるはずだ。 さぁ、滑稽だろう。私はこの感想を書くことによって、文学士の心を持つことを主張し、一目置かれることを狙ったのだ。太宰は今や私の手の内にある。私が太宰を一番よく知っている。私が私以外の人間を浅慮な道化だと断じるが如く、自分自身が道化であるようにも思われる。その時、そしてその時に限り、私は完全に自信を失うのだ。どうだろう、君も是非、内面から湧き上がる材料を使って、優れた文章を書いてみてはくれまいか。いや、羞恥を君に転嫁するのもよそう。もう熱も覚めてきたのだ。これだって、なかなか乙な文章だよ。