結局セックスする話や! 何やこれ!
「シルクハット」で似たような病気持ちの娼婦が出ていた。
主人公はやたらにアレキサンダー君のことを考える。踊れず手持ち無沙汰になったり、ホテルの青白い娘を抱いたりした後、彼の言葉を思い出して文章が結ばれる。二人は初めて遊びに行く仲なのに不思議だ。 というか、この話の中で主人公は他人にあまり心をかけていない。とりたてて喜怒哀楽もなく最後までフラットに進んで、女にシレッと嘘をつく。アレキサンダー君のことも、見るともなく見ている程度だ。宮廷付の舞踏家だったと自称する彼の踊りは上手いだろうに、特に細かい描写はない。静かに進んでいく雰囲気に漱石の『硝子戸の中』などを思い出したが、神経質さを感じない点で少し異なる。 六月の牡丹の如く絢爛な女、という表現は割と好きだ。自分も物慣れた友人に伴われて遊び、その夜の相手を選んでみるというのも楽しそうだと思った。“友人に伴われて”いるのが肝心で、何事にも先達はあらまほしきもの。
嘘を吐いた相手は 最も古い仕事の病気持ちの女である。 港町ものの ようでもあり 雰囲気がある。 それにしても 長い題名であると感じた。
渡辺温は、若くして谷崎潤一郎にみとめられ、前途洋々だったのに、列車事故に遭遇し夭逝亡した。wikiで「渡辺温」の項を読んでみたら、ここに掲げられた作品も主要作品のひとつに上げられていた。とすると、ここに上げられているのは、一部分なのだろうか。もしこれが遺作のすべてなら、巧拙を論じる前にむしろ哀れを感じる。
古風過ぎて興味が無くなった
コロナの最中に読んでます。コロナ離婚というワードが流行ってますが、コロナ結婚とか、それに変わる何かもありそうですね。しかし刹那が凄いです。
読解力が無さすぎて、最初この本が何をいわんとしているのかがよく分からなかった。 ネットで他の方の感想を読んで、情緒溢れる港町で「大人の遊び」に興じた人の小話という感じだろうか? 長編タイプのような文脈なので、これだけの短さだと何だか「物足りない」気がした。
横浜でお洒落に飲み歩く話かと思えば、最終的に売春宿に行き着いてちょっとガッカリ。 発表が小林多喜二の蟹工船と同じ年。 同じ年に、かけ離れている二つの世界のようで、同じ貧しさの影を売春宿の女には見る。 そして、華族様だよ云々に、自分に酔っている風な、この文章もまた、時代のいち証言。 1929年。世界恐慌の始まりの年ですな。