まずは、「面白かった」と、書いておこう、もちろん、条件付きで。 なぜ、条件を付けなければならないかというと、ここに書かれている世界が、あまりにも白黒の区別がはっきりとした「特殊な世界」だからだ、つまり、「悪」がよく見える世界だ。 主人公の女は、病身の夫を抱え、その病気治療のために、どうしてもまとまった金が必要になり、しかし、いままで自分がしていた紡績工場の給金だけでは治療費までは到底まかなえないので、実入りのいいカフェの女給の仕事口を探す(作中では、ボーイとか、女ボーイと称しているが、いわば女給のことだろう、そういう時代の話だ)。 しかし、女は、その女給の給金の額を知って驚く「そんなに稼げるのか」と。 その驚きのなかには、たかが、あの程度の馬鹿げた仕事で、という侮蔑の意味も含まれている。 客に料理を運び、話し相手になって酒をつぐだけなのだが、そこは女の武器の愛嬌と媚びで男をいい気持ちにさせて、どんどん食わせ、どんどん飲ませるのが、女給の腕の見せ所で、しかも店から求められているスキルでもある、いずれにしても、愚劣な仕事だとしか女には思えず軽蔑しているものの、「いい稼ぎ」になるので捨てがたく、ずるずると仕事を続けているうちに、客の巧みな企みにはまって暴行を受けるという事態に遭う。どうみても強姦だ。 そのことを雇い主に訴えるが、 「そもそも、あんたの仕事がそういう仕事なのだから、仕方あるまい、だからそういうこともあるだろうさ。それが嫌なら、やめるしかないな」と、一蹴される。 こんな理不尽なことは決して許せないと怒った女は、夫に告げることも考えるが、療養中の夫の身体に障ることを気遣って、思いとどまる。 ラストの場面は、女給の置かれている売春まがいのサービスを黙認している不当な扱いや、劣悪な労働環境を糾弾して、ついに、雇い主の暴言にぶちきれ、啖呵をきる場面。 《登恵子にはこう言うおやじの顔が、幾万の女を虐げて豚のように肥満している総ての料理屋の主人の代表の如く思われて、憎悪に堪えなかった。そして、 「誰が居てやるものか、畜生!」と痛烈な一語を残して敢然と其処を立ち去った。と、彼女は(女工がいい、堅実な神聖な労働がいい)とつくづく元の生活が恋しくなった。》 この最後の一文を読むと、彼女の抱く「労働」が、ずいぶん倫理的なものであることが分かる。 「堅実で神聖な労働」と言っているくらいだから、「清く正しく」と言い換えても、たぶん、それほどの違いはない。 しかし、「労働」は、人格形成や修養の場所なんかではなく、生きていくために必要な金を稼ぐための、手を汚して既定の作業を、既定の時間分だけ拘束されるという、ただそれだけのことだ。 最初は、女給の仕事など、どんな馬鹿でもできる愚劣な仕事だとなめてかかり、金のためにふて腐れぎみに適当に仕事をこなしているうちに、まんまと悪辣な客の策謀にはまって暴行される。 そして、最後は、結局、自分が作った状況に追い詰められて、憎悪の絶叫を残してその場を立ち去るしかない。 挙げ句の果てに、悔恨とともに「堅実で神聖な労働がいい、女工がいい」などと、かつての女工時代を懐かしんでいる。 喧嘩して赴任先の松山を悠然と飛び出した「坊っちゃん」は、果たして勝者かという問題もあるだろうが、それは今は置いておく。 しかし、それ以前に、なんか、この人、おかしくないか? という思いが残った。 それほど好きな女工の仕事だったのなら、なぜ続けなかったのだ? 水商売がそれほどまでに嫌悪の対象であったなら、なおさらではないか。 それらの屈辱的な仕事に耐えたのは、病身の夫の存在があったからだろうが、そのことには、いささかの言及もないまま、彼女はひたすら社会の不正と不合理を声高に糾弾し続ける。 あなたが庇うその男は、本当に庇うにたる男なのか。 たぶん、林芙美子なら、とっとと男と切れて、少しは頼りがいのある現実的な水商売の方を選択したことだろう。 細井和喜蔵 1897~1925 随筆家、小説家 京都府与謝郡加悦町加悦奥で生まれたが、物心がつかないうちに婿養子だった父は離縁されて家を去り、母りきは、かれが6歳の時に入水自殺を図った。 幼いときから両親と別れ祖母に育てられたが、13歳のときには唯一の保護者だった祖母にも死なれ、尋常5年生で学校をやめて近くの丹後ちりめん上隣の機屋駒忠の小僧となる。その後、三丹電気会社の油差し工になるなど、いろいろと職場を変える。 1912年頃、大阪に出て、西成郡(現在の此花区)にあった紡績工場で織機の見習い職工として勤める。まもなく、創草期の労働運動にも参加するようになる。 1920年に上京して、紡績工場に勤めるが、当時の労働運動のなかのいわゆる「アナ·ボル論争」のなかで、実際の運動の方からは距離をおくようになる。そのころから雑誌「種蒔く人たち」と知り合い、文学の道に向かう。 1924年、藤森成吉の斡旋で紡績工場の現実をルポルタージュした「女工哀史」を雑誌「改造」に発表し、翌1925年7月、単行本として改造社から刊行し、注目を集める。 和喜蔵本人の職場経験があればこそのリアルな観察、古老からの聞き書き、妻としの職場経験や、としをとの討論などが生かされ、内容は多岐にわたっている。 女子労働者の生活記録として、現在でも古典的地位を占めている。 「女工哀史」を書き上げたあと、その小説版として「奴隷」と「工場」の原稿を書き上げたが、それはまだ初稿の段階であり、原稿を推敲し、修正を加える機会を持つこともないまま、1925年8月18日、急性腹膜炎にて死去した。「女工哀史」に描かれた内容の多くを提供し、執筆に向かう和喜蔵を支えたのも妻としであった。しかし、和喜蔵の死後、長男暁も生後1週間で死亡し、内縁の妻であったとしが印税を受けとることはなかった。 没後、自伝的長編小説「奴隷」、紡績王の生活を描いた「工場」を刊行した。「女工哀史」と合わせて、その印税が基金となって、東京の青山霊園に解放運動無名戦士墓がつくられ、現在も日本国民救済会が管理して、毎年3月18日、(パリ·コミューン記念日)に追悼祭をおこなっている。