話らしい話が 有るか無いかは 大切な分岐点らしい。 そのことに 無意識に過ごして来たことが 悔やまれてならない。 賞狙いの作家志望者だったら 読んでおかなければならない 本かもしれないとも感じた。 馬齢を重ねる無知蒙昧を 今頃になって 懺悔反省しても 間に合わないなと思った。
本書は、谷崎潤一郎と文学における芸術性について論じていた際に、谷崎潤一郎が作品には筋が構造的、建築的な芸術性として必要であると論じたことへの芥川による谷崎潤一郎への回答として発表された作品です。またその時代は通俗小説が流行っていた時代でもありました。 しかし晩年手前の芥川にとっては小説は自己告白を主眼に書いていた時期でもあり、筋の重要性を持たせずに表現する、芸術至上主義としての一面を圧倒的に押し出した作品でもあります。 芥川は漱石に最も愛され、かつ当時もっとも若い作家でした。 漱石については秋の光の中、樫の木に腰掛けて先生の本を読んでいると木の葉も動きをとめ、硝子の天秤が平衡しているような感じを持ちながら本を読み進めた、というような描写を他作で表現しています。 漱石は後進の育成について物語の組み立てや、文章の技巧について言及することが多くありました。鼻、芋がゆについての芥川への漱石の言葉を飾るはまさにそういう部分について書かれており、芥川もそれにより作家としての道筋を見いだせたことを友人に勧めるへの手紙に書いております、そのため芥川の根底にも物語の筋の大切さというのはもちろん存在しています。 ただし、漱石の死後、漱石の長女筆子との縁談が勝手に起こり、それにより親友だった久米らとの溝が生まれ、厭世観を強めます。さらには森鴎外の死も見た彼は、実母の発狂から義理の兄の自殺、心の底で自分と才知においても戦えると初めて思う女性との出会い、そしてそれを黙して通りすぎていくしかない純粋さを持つ自分。それらを意識した時代で、発狂か死かという点に追い詰められていく過程での作品でもあります。 俳句や詩、絵画にまで芸術性あるところに彼は興味を注ぎつづけていたのが形になったもので、小説、として読むのは少し違う作品だと思われます。彼の人間性や時代、取り巻く環境、それをどのように作品として現したのか、そういった所に目を向けて読むと奥行きの深さを感じやすいかと思われます。