雙之川喜1941 春先 木の芽時に なると 夢心地で うつつとの 境い目が 判然とは していない あちら側に 住む かもしれない お方が 作家の 私宅に 出没する ことは 昔から めずらしくも ないことで 新聞種に なったりして 世を 騒がしていた。狂気と 正気の 境い目で 商売するのが 書き手の 渡世で これを 飯の種に 仕上げるのを 楽屋落ちと よぶ。翻って 読み手と しても 境い目に 寄生するの だから 相討ちと 呼ぶべき なのか。
感動→空想→妄想→思考の迷走→暴走→意気消沈→疲れて眠る 自分もよくある思考の流れ。わかる気がする。
太宰さんは嘘ばっかで、信頼度ゼロだけど、でも、いつだって本音ぶつけてますよ。
あんなの、インチキというんじゃないかしら? 小説家は嘘付きだ、という「私」もフィクションなんでしょ? 戸田先生、菊子さん、なんて本当は居ないんでしょう? みんな、インチキだ! イケメンが不細工を演じたり、不細工が美男子に変身したり。美人を殺したり、愛されたり。 小説家なんて、どうせ空想家なんでしょ?妄想癖がある病人よ! 読者はどうすれば、良いかしら? そうね、私なら、戸田に会いに行くにしても、思い切り着飾ってお洒落して現実を見せつけてあげるわ。戸田を見下していたのなら最後までそうするべきよ。同情なんかするから、バチが当たったのよ。バチでなくハジが当たったようね! 小説家が自由なら、読者はもっと自由にならなくちゃ。 と、菊子は私に言った。
1942年に、婦人画報に掲載された作品なので。「奥様」の読者が対象となっているライトノベル的。思い込みが激しいが、立ち直りも速そうな主人公。作家は時として、この様な手紙を受けとるのだろうと思う。
小説(の主人公)と小説家は別人 小説はFictionなり 全く自分と反対の人間を描いても 詐欺罪にはならぬ 嘘つきは小説家の本質でもある 数年前 一杯のかけそば という話が感動を呼んだ だが 作者は世間の期待を裏切った しかし、本質的に彼に罪はない 人生は全て作り話なのだから
悲しいより悲しいことは、ぬか喜びと言う名言を思い出しました。恥ずかしいことは、一方的な思い込み。私もよく恥をかくので、ドキリとした作品です。
ピースの又吉さんがテレビでおすすめしていた短編。夢見がちな女の子が思いのままに暴走している感じが滑稽とも哀れにも見えるけど、案外読者の無意識の願望を見せられてもいるようで他人事とは思えないかも・・・
自分は社会的にはあまり褒められない人ばかり描写してるけど、自分は本当はそうではないんだよと太宰治が弁明してる様にも読めて面白かった。
自分の中で憧れて、良くも悪くも理想像ができあがり、私が助けてあげなければと思い込む。 妄想というのでしょうが、彼女の気持ち、わかります。
又吉さん薦めで読みました。なかなか面白い、いい短篇、いいひねり
太宰治らしい文章。ただ、二度目は読まないかな。
芥川賞よりも直木賞を狙えばよかったのではないか❓
こういう心境になることが 長い人生においては あるような気がしてきます。 状況は当然 違うでしょうが この女性のように 何かをはき違えてしまうこと、あったと思えてきます。 人生には 恥が多いです。これからも。
又吉が絶賛の一作。確かに面白かったです。