よかったです
新聞に 取り上げられていたので 再読してみた。井伏鱒二 大先生の 執筆が 一段落したのに 紛れて にわかに 同行した 気配があり あたふたと 山行に 出立したので 褞袍(どてら)着用と 相成ったようだ。一方 太宰ときたら 結婚話しの 方は なかなか 難航(なんこう)しており 気持ちの上でも ちぐはぐな 心情だったようにも 感じた。
面白かった。太宰治にしては暗い感じはなく、文量も良かった。
太宰なのに『斜陽』や『人間失格』ほど嫌ではない。しかし「自分はなんにも偉いこと無いけどあなたの苦悩には共感できる」という態度は誠に太宰らしい高慢さだと思う。 また、安珍清姫を褒めるのもかなり太宰らしいと思った。
19ページの「苦悩だけは…」の部分がすごく好きです。 生活感や書き手の息づかいが感じられる文章で、こういうものも書いてたんだ、と意外に思いました。読んだあとなんだか暖かな気持ちになった。
富士には月見草がよく似合う。 この本の言葉だったのか。 富士をとてもうまく取り込んだ、味わいのある文章に惹かれる。
千三百米の高みにある天下茶屋から 富嶽と対峙する。 井伏鱒二と山行したり 見合いをしたり 創作したり シャッター押しを頼まれると 人物を写しこまないで富士山だけに ピントを 合わせたりしているけれど 人生の重大な局面に立ちつつ 悪戦苦闘が 微笑ましい。
僕は太宰治が大好きなのですが、この話も変わらず彼の斜に構えた思想や共感性の高いみずみずしい文章に感銘を受けました。
富士山の麓で暮らす日々を綴っている。 主人公(太宰自身?) は作品を書けず悩んでいる。富士山が陳腐なものに見えたり、素晴らしいものに見えたり、主人公の気持ちで変化する。 "富士山=憧れ=ビッグになる、成功する=しかし俗"ということかなぁ。多くの人に影響を及ぼし誉められ崇められるけれども、その逆のバッシングも起こりうる。しかし富士山の何が起こっても何と言われても、その何も言わない堂々とした態度に感心する。主人公の心がどれだけいろんなことで揺れ動いているのかよく分かる。 山を降りても日本一の山と共に過ごした記憶は消えないだろう。 後で思い出したけれど、"月見草"。 あれは主人公自身をイメージしていたようだ。御坂峠の茶屋には月見草がたくさん咲き、その景色を富士山が包み込む。懐の深い山である。 ラストは希望に満ちた清々しいものとなる。
普通の人の感性。
五年ほど前になりますが、御坂峠の天下茶屋に行って来ました。生憎の曇り空で富士は望めませんでした。 全集の口絵にはここからの富士がおさめられていて、この勇姿が「まるで、風呂屋のペンキ画」なのだそうです。 茶屋の二階には小部屋あってその時愛用した机が展示されていました。部屋も机も随分質素で、ここからだからこそこの名作が生まれたのだと変な確信を持ちました。 翌日、三ッ峠にも登りました。作品同様富士は霧の中。つまらなくて放屁するのも頷けます。 作品の中程にあらわれる月見草は、実際はマツヨイグサなのだそうで、4月の訪問だったので、見付けることが出来ませんでした。 是非 もう一度行かなければ…と決心しましたが、まだ果たせていません。
久しぶりに読んだらやはりよかった
高校の授業以来、ひさしぶりに読みました。 無骨だなんだといっておきながらときどき驚きをもって作者の目に飛び込んでくる富士への作者の感情が、なんだかおかしくもあり、すこし共感してしまったりもするような心地よさがありました。遊女の身の上を思い作者が悲しみに沈んでいたとき、富士にお願いをしたシーンが印象に残っています。そこにどしりと構えてあってくれることで、日本人の心が少し軽くなる、支えられるという感覚を優しく描いているところが大好きです。
おもしろい
①まずは、富士山は低いとの批判的評価有り。 ②富士も俗なら、法師も俗だ。富士に登っての感想。井伏氏が出てきたぞ! ③モーパッサンの小説で、女が貴公子に会いに毎晩、河を泳いで行く、という話の話題に。「着物はどうしたのか?」という疑問。確かに。 富士の高嶺に雪降り積む。 ④バスのシーンで、富士に目もくれない老人がいた。共感する。天邪鬼。 結婚の話は結局、破談?宿に戻るが、原稿が進まず。 何か主題が解らぬ作品だこと。実名登場だが、私小説と見るべきか?
場面がめくるめく移り変わりますが、自然で無理がなく、見事です。
娘さん達に対して一人キザを気取り飄々とする太宰を思い浮かべ何だかほんわかしました
内容に引き込まれました!面白かったです。
色々な挫折をした人だから、人の優しさを素直に描けるのかな、と思いました。
滴るように青い富士、なんだかとてもおいしそうで思わず想像してしまって、絵に書き起こしたくなりました。現代小説ではないのになんだかそのロマンチックな物言いがとても新鮮に思えて、この小説の世界にどんどん引き込まれました。