主義主張の違いは、古今東西続いており時には戦争になることも少なくない。常に敵を見付けないと存在出来ないのが現実の世界です。何故なのか?それをしないと食べて生けないのかも。君の考え方を尊重します、同時に僕の考え方も認めてくれ、単純にそう言える世の中で暮らせたら幸せだろう。共存共栄これから先の世界はこうあってほしい。新しい視点を期待します。
ある日、村の駐在さんから、東京に出ている孝行息子が、大それた事件を起こして捕まり、刑務所に入れられたと知らされる。 巡査の口から、「共産党だ」と教えられても、無知な母親は、その難しい言葉を覚えられもしないし、そもそもそれが何のことだかも分からない。 しかし、そんな息子を親切に支援してくれる優しい女性に逢ったり、村の小作争議を目の当たりにして、徐々に社会の矛盾に目覚めていく。 やがて、過酷な弾圧を受けながら、昂然と労働運動に邁進する息子の活動を理解して、共に戦列に立つ、とかなんとか、ゴーリキーの「母」の焼き直しから一歩も踏み出すことの出来ないオリジナリティに欠けた退屈なプロパガンダ小説。 小林多喜二のどの小説も、最下層のスラムで生きる無知で粗暴なスト破りのならず者が、階級意識に目覚めて革命の英雄になり前衛に立つという「公式」にそって忠実に作られているために、作品それ自体の評価を受けることは、まずない。 吉本隆明の「党生活者批判」によって、その愚劣な非人間性を暴かれ、文学としての価値は完全に息の根を止められた。 この日本人に取り付く社会主義に対する劣等感と独特の歪んだロマンチシズムという害毒は、現代もなお武蔵野市を覆っている。
実際にこう言う時代がこの国にあったという事実。 今は変わったのかと言えば分からない。 真実を求めない人達は今も純粋で、日々を懸命に過ごしている。
まだ、資本主義が人々を苦しめていた時代、共産主義の幻想が破られていなかった時代の痛々しい記録、といったところでしょうか… 格差が拡がってくるとまたこうならないとも限らないのが怖い。
太陽を目指した鳥。 彼が見つめていたものを理解できないのは、不幸なのか、それとも。
いつの時代も、母の思いは美しくてかなしい。目のただれたお母さん、刑務所の塀の厚さに動けなくなったお母さん、キョウサントウ と憶えられなかったお母さん、 一枚のはがきを何度も読み聞かせてもらったお母さん、抱きしめてあげたいぐらい純朴なお母さん、まだ息子の帰りを待っているのかな?