イエスキリストの話だとは思わなかった。 面白かった。あっという間に読んでしまった。 聖書は読んだことがないし、いつか読んでみたいとおもってはいる。 いつか読んでみたい。 そして、この物語をもう一度読み終えたときに何か変わるかもしれない。
なんというか、人の汚らしさと、二律背反を良く感じ取れる作品に思えた。 何も要らない、といいながら、自分だけに少し話をしてくれれば、自分が特別なのだと舞い上がり、それが普通であるように求めるようになる。それが人であり、神の子である"あの人"とは異なる穢れである…と、いうような。 自分の性根を隠し続けて、美しい"あの人"に相応しい者に成ろうとしたけれども、結局は少しずつ欲が出て、最後には"あの人"と程遠くなってしまった…。そんなような。 人が善意を成すのは、どうもされたいからするのだ、とでも言いたいような作品だと思えた。
とても面白かった! 私は、あまりキリスト教の方には明るくはないが、途中でおや?と思うことがあり名前が出てきたあたりで、語り手が誰なのか、というのはあたりをつけて読んでいたけれど最後の、名乗りで何となく、おぉ、と思った。 なんともまぁ、錯乱しているというか、色々とあった後の脳内に似ているな、と思う。あぁでもないこうでもないと、要らぬことを口走り、正気の沙汰ではない。最近の言葉で言うと反転アンチとか、言えるんじゃないかな彼。 愛してはいたけど、それは独り善がりなもの。決して、相手を思いやるものでなく、己の欲求の為の愛、独占欲、嫉妬とても人間らしい感情であると、私は思う。
語り手の崇拝、混乱、殺意が伝わる凄まじい文章だった。「あの人」と呼んでいたのに「あいつ」に変わる様は無情さを感じる。キリスト教には詳しくないので途中からではあったが、まさかこの話はあの…と気付いた時の驚きは忘れがたいものがあった。
読んでいる間ずっと心臓がどきどきしていた。語り手の焦りや怒り、混乱が、まるで読者である自分の感情かのように迫ってくる。言葉の嵐に心を乗っ取られるような、恐ろしくも夢のような読書体験。
人の裏切りは、何度か経験するもの、肥やしにする他ない。言葉で人は変えられない、その境遇に接して見ないて、変化は生まれない。僕の感想。
今まで太宰の作品では、人間失格、走れメロス、斜陽しか読んだことがなく、なんだかグダグダ暗い話を書く人だと思っていました。この話に出会って初めて、もっと太宰を読んでみたいと思うようになりました。 色々詳しくない為、誰の話なのかわからず、あれこれは、いやまさかと、楽しく読みました。
太宰会心の作。彼の創作活動の最も充実していた時期に、最も興味のある題材を選び、最も得意とする形式で書かれた作品。 実はこの作品、口述筆記。それについて妻の証言がある。 「太宰は(中略)全文、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言い直しもなかった。ふだんと打って変わったきびしい彼の表情に威圧されて、私はただ機械的にペンを動かすだけだった。」(津島美知子著「回想の太宰治」講談社文芸文庫p43) 何故かため息がでてしまう。淀みも言い直しもなく・・・、全文口述・・・。頭の中を言葉が駆け巡りそれが連なって一本の糸となり、その糸が溜まりに溜まって我慢ならず一気に吐き出す。 小説を書くということのほかに何もしなかった乃至出来なかった太宰はひたすら小説を書いた。彼にとって生きることの全ては小説の為にあり、そして死ぬことさえもその例外ではなかった・・・。 「回想の太宰治」は、太宰の日常が冷徹なまでの明晰さで記録されている。著者は妻であると共に熱烈な太宰ファンでもあったに違いない。
ああ、ああ、やはりユダも、ユダの主人もその弟子たちもみんな、厳しい世界にいることを既に感じながら、心を病んでしまっていたようである。何処まで病めるのか、病まねばならぬのか、日々の厳しさが障害となるならば、それらを軽々と超える手立てはまず、神の美しさに心を病むことに他ならず、神は常に貧しきものに寄り添い誘い訴えさせる。厳しい世界を壊さずにただ眺め過ごす事こそ全く正しい事であり、親しい人々を護る唯一の手段だと。夢を見る事こそが貧しきものの総てであると。 そして、その時夢を現実に映し、更にその後何千年に及んで世界が必要とする夢を創ったユダこそは、希代の天才発明家であったのだ。
とても好きなお話です。感情を叩きつけるように語る様子は壮絶で醜く、けれど美しくもある。
一番弟子は、ユダではなかろうか。
前半では 片想いの女の綿々たる愛憎ないまぜの 独白に 違いないと思い込んでいた。 中頃になると ありゃ 男同士の痴話喧嘩かもしれないと 薄々感じはじめた。 終盤に 世界的文学賞ものと 確信した。 このような作品に 生きている間に 出会えたことを感謝する。
これ好きで何度も呼んでしまいます。 もの凄く太宰治です。 これが好きな方は太宰の中期の作品は好きだと思います。 キリスト教徒の方は嫌がるのかな?
然れど愛。 どうせ居なくなるのならば私の手でこの世から逃して差し上げたい。 あなたがそれを望まなくともいや望んでいたのだと私は思います。あなたがこの世から居なくなる時はきっと私もお供致しますとあの時言った誓をあなたが忘れることなどはないでしょう。 私の愛は歪かもしれない。けれど私の愛の形はこれでしかないのです。主よお許しを。 あなたが消えたその後に私も共に地獄の業火に焼かれにいきませう
愛と嫉妬の切実な訴え。最後の文章に、なるほどなぁ。流れる疾走感ある作品。
血を吐くような告白。冒頭でぐいと引き込み末尾でしっかり落とす構成に惚れ惚れ。古ぼけた紙の上の人物だったはずが読むうちに血の通った人間のように映る。愛も憎悪も結局は執着なのだ。どんな種類にせよ感情の強さが釣り合わない関係は辛い。 キリスト教では自殺が罪とされるにも関わらずユダがのちに自殺する事実は太宰の手にかかったらどう脚色されるのだろう。死後の救いを自ら拒んだ、とかだろうか。
面白い解釈だと思ったし、なかなか興味深かったです。 でも、最後までユダに全然感情移入できませんでした。 人に対しての感覚が鋭い人、って稀にいますけど、あくまで感覚が鋭いだけであって、相手の全てを分かったような素振りをしてみるのは、ユダの傲慢さと独りよがりの表れなのではないかと感じました。 作中で、愛していた、いや微塵も愛してなどいなかった・・・などと、ユダは二転三転するような物言いをするのが、かなり人間臭くって良かったです。
流れるような、怒涛の言葉の奔流で表された激情。それは嫉妬のようで、後悔のようで、愛のようで、怒りのようで……。様々な感情考えが立ち代わり入れ替わりに現れ消えていく。 また、この物語に出てくるキリストや聖人は人のレベルにまで落とされどこか滑稽で、親しみやすく書かれている。誰しもキリストとユダの気持ちになったことがあるのではないだろうか。あなたは、キリストであり又ユダである。
最後の1~2行で感動させるところは、横山秀夫さんの書き方を連想させるような…うん。面白かった❗
眩いほど恋しい人が自分だけを愛してくれないときに、心の底から優しくしてあげることのどんなに難しいことか。感情の錯綜。