私には「人間失格」というような言い回しをするのはとても興ざめたものだと感じました。人間として生きるうえで悩み続けることを、果たして選択を誤ったとしても失格というのはとても悲しいです。※個人の感想です
葉蔵モテモテで羨ましい
2回目のじっくり読みです、私は今65歳、あとどれくらい、じっくり読めば、少しでも、追いつけるのでしょう。
名作。
普通の人間に成ろうとして成れなかった男の物語。マダムが彼を神様みたいと評しても、それは彼にとって人間失格と同義であることが皮肉。
「人間はああになっては終わり」というより「欲という感情の大切さ」が分かる作品。敵を見誤ってはいけないと感じられるような作品であった。
酒とモルヒネに溺れ今で言う精神病棟に入れられて自ら「人間、失格」。 ではその対義語だと思われるまっとうな人間はどんなもの?? それは描かれていないように思うしあえて描いていないのだと感じる。出てくる人物は十人十色、妻を犯した明らかな悪、罪人もいれば、主人公の世話をするも嘘で小さな見栄をはるヒラメは行いは一般常識で見れば善、そんな善人がしょうもない嘘をつく。 何を持って人間失格なのか。マダムは主人公を神様のようと表現する。その理由はまだわからない。
何でも疑い過ぎること、信じれないことに苦しんでいた主人公が救いとして見た、何でも信じてしまう子が信じ過ぎることによって、起こった悲劇を体験したときの絶望は計り知れないなと思った。
人の心の中には、本能と理性のせめぎ合いがある。 本能には、生命進化の大原理である「弱肉強食」に連なるエゴイズムと性欲がその中心にあり、生命共同体の一員としての理想の在り方を問う理性との共存に難義する。
人間はやはり人では無くて人間である。他者から見られる自分と、自己が認識している自分が気分悪くズレてしまい、そのズレすら性情に拠って修正できなかった人の末路…
太宰治の最高傑作です。人間の生活か見当つかない。太宰さん、私も見当つきません!。
あとがきは誰が書いたの?
初めは主人公は自分に近い考えを持ってるなと興味を持ったがそれも中盤まで。HSPなので主人公に関わる人々の不憫さが痛烈で読むのが辛くなってきた。。
人間という人間の考えや思いの多種多様を感じさせられました。どの考えが正しいということではないことを。やはり葉ちゃんは神様かも。
ビィヨンの妻とテーマは同じかな⁉️
厨二病の目指す姿。 厨二病はこの人の姿から生まれたんじゃないかって位そのまんま。 まさに厨二病入門書。 だか、本人はただの悩める天才であって、厨二病なのは平凡な俺らである。
可哀想なお話。一気に読んだ。誰にもある劣等感をことさら大きくしたお話。共感出来る。
主人公が求めていたものってなんだったのか考えさせられる。 やっぱり、人間合格かな。
私は今日、心療内科に『うつ状態、社会不安障害』の診察を受けて数ヶ月の休業を促され、ぼんやりとセピアに褪せた心で過ごす中、ふと思い至ってこれを読みました。 読んで、特に感動があるわけではありません。この小説にはとてつもない驚きなど一つもありません。ただ、しかし、これを最後まで興味を持って読む多くの人は、「この主人公は自分だ」という奇妙にスッキリした自覚と、それに共感する自分であってはいけないとする強迫観念と、けれど打開する術には皆目見当がないという絶望を胸に打ち込まれるものではないかと感じています。 幼くして人が人を欺く様を他人事のように見て、それをまるで理解もできず、目の前の他人が胸中で何を思って私を見ているのか恐ろしくてたまらなかった私です。大庭葉蔵と全く同様の不安を長く抱えて、不意に他人に欺かれる恐怖と、それ故に逃げ回り知らず知らずの内に他人を欺き続けている自分に罪悪を感じて仕方がない私です。 家族や恋人、それに同郷の友人には、お世辞かも分かりませんが、良く気が利く優しい奴だと言われます。ええ、違います。私はそんな人間?ではないのです。けれど、そう思われるように生きてきたのです。そして、そうと思われている事、その期待に、発狂しかける程の罪悪感を抱いて堪らないのです。 休業が明ける頃、私は25になります。その先2年、果たして私は葉蔵の末路と違っているのか、そうでないのか。 ただ一切は過ぎていく、その言葉が他人事では無い不安を後に引いたまま、消えてはくれない。そんな痛烈な作品と感じています。
太宰治の最高傑作