この作品は夫婦喧嘩を描いたものであると作中で述べている。芥川夫婦自身の事であろうか?そうすると成長の遅れを心配している長男は芥川比呂志という事になる。俳優として立派に成長している。本書の主旨は子供より親が大事と世間に反論して女遊びの口実としていることである。
胸が締め付けられる作品でした。 誰しも口に出しても癒えないものを抱えている気がします。死をもって思考を停止させることも可能かもしれませんが賛成しかねます。責任の大小はあっても逃亡者にはなりたくありません。自分の思い通りにならないのが常態だ位に考えてるほうが生きやすい。
はっきりいって私は太宰が好きになれません。 作者を知らずに太宰の「津軽」の一部分を読んだことがあります。 心惹かれました。 だから、私が太宰を好きになれない理由は、彼の作品にあるのではなく、彼の送ってきた人生がそう思わせるのだと思います。 文学作品に対しては、人それぞれ受け止め方があると思いますし、それが当然というか、そうでなければいけないとも思います。 でも私には、この「桜桃」が、太宰が自分の子供に「父さんは弱いんだから、後々ちゃんと面倒を見てくれよ」と泣きついているようにしか思えません。 ねじ曲がった考えかもしれません。 太宰の作品を愛する方々においては「こいつ何様のつもりだ」というご批判もあろうかと思いますが、これが私の太宰治という作家の作品に対する私の見方・感想です。
乳と乳の間に涙の谷間。 乾く間もなく 落涙に 咽(むせ)んだことだろう。 桜桃は 苦渋の 故郷の味かもしれない。 自死の 遠因は 障害のある子にも有った様にも 思えてきた。
この作者の作品で最初に読んだのがこれ。兄の書棚にあったのをたまたま見つけて読んだのだが、なんとまあ苦しい、というのが第一印象。武者小路実篤の「友情」(ぬるいお風呂に入ったような小説)を読んだ直後だったので、なおさらそう思った。高校二年生の夏であったと思う。 その後この作者に嵌まってだいたい読んだが、人間失格、家庭の幸福、ヴィヨンの妻、斜陽…どれも苦しかった。 この作者の作品にのめり込むのは子供の頃にかかる麻疹みたいなもの、一度は通過しなければならないというような意味のことを、確か安岡章太郎がどこかで言っていた。最近、綿矢りさや又吉直樹の芥川賞受賞のインタビューで、この作者の名前が飛び出してきてびっくりする一方でなるほどと妙に納得した。 この作品は、作品内の言葉通り夫婦喧嘩の小説なのである。だから修羅場である。夫婦喧嘩修羅場小説と言えば真っ先に島尾敏雄の「死の棘」が思い浮かぶが、この作品の方が十年以上先輩。先輩の風格というか、ダメ男のダメさ具合乃至理不尽さは後輩を凌ぐ。 後輩は奄美大島に引っ込んだが、先輩は玉川上水に飛び込んだ。この違いがどこから生じたかはひとまず措くとして、太宰が後輩のように生きていたなら、どんな作品を残したのだろうと、六十歳を過ぎたこの頃思う。
涙の谷、の描写が聖書を思わせて好き。
上手。とても良い。人間失格、i can speakの次に良い。な、ナ、涙の谷。 な、ナ、涙の谷。すっと繰り返して読みやすさかつ強調の演出。な、ナ、涙の谷。やっぱり、太宰はいいなぁ。
われ、山にむかひて、目を挙ぐ。 わが救いは、いづこより来たるや。 続くこの言葉が語られない、悲しみすら見つからない。
一家の主が大黒柱で、正しくて強くて稼がねばならなかった時代。妻が理不尽に耐えて夫に仕えねばならなかった時代。親は正しくあらねばならなかった時代。障害を公表も受け入れることもできなかった時代。個人それぞれの中に強みも弱みもあるのに、あるがままでいられなかった時代の空気がよく伝わる。今もその風潮は残ってるけど、過去は本当に苦しかったと感じる。
亡くなる少し前に 書かれたのでしょうか。 家庭、仕事、人生に追い詰められ、切羽詰まった感じで、気の毒になる。 奥さんは あの時代の母親だから堪えてはいるが 作者と似ていて パッパッと言いたいことを 吐き出すことが できない人だったのかと想像する。 会ってみたいです。