否とはいえない、というのがこの本のうつくしさをいっそうに増す味のひとつになっているとおもいます。ありし武蔵野をみつめる文人の目はことごとくやさしさにみちています。そもそも、土地の人間でもないいっかいの男に否ということばは用意されてはいないのかもしれません。そのことをよくわきまえていたのだと信じたいとおもいます。その土地をくだくだしくいいだのわるいだのとあげつらうのは、その地に血肉を落とした郷土民の特権なのではないでしょうか。東へ西への遍歴を経て数々の居をかまえ、ついには病にコロリとたおれた国木田独歩。かれこそわたしの最初に発見した異邦人でした。異邦人はただおどろきと誠実でもってこの土地にやっかいになるほかありません。ある線をして武蔵野をみつめたかれの目をつうじたこの書きぶりは敬服に値するものだと感じました。
こういう小説を今書いて、ネットに投稿すると、エッセイか何かと勘違いされるんじゃないかという気がする。あまり読まれないだろうし、いいね!もブクマもつかないだろう。私は父の田舎を思い出したんだけど、田舎の方に住んでいる人達は違うのかな?
初見、序盤は少し硬い文だと感じたがページをめくるごとに武蔵野に行きたくなった。 「自分はかくためらったことがしばしばある。自分は困ったか否、困らない。自分は武蔵野を縦横に通じている路は、どれを撰んでいっても自分を失望ささないことを久しく経験して知っているから。」
風景の描写がとても細かくて、まるで自分が武蔵野に行っていたような気持ちになります。
「桜は春咲くこと知らねえだね」と 茶屋の婆さんに 夏の盛に からかわれる。 露文学の描写にも触れており 独歩の緻密な自然感を しみじみと知ることにはなると感じた。
武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり、 というフレーズが好きだ! 文章は書き出しで全て決まる、の典型だ! 勿論、数回は読み返している書だが、時には、このフレーズだけで充分な日もある。手抜きではない! 武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり、 なのだ!それで、もう既に杖の倒れるママ運に委ねて、武蔵野の自然を満喫できるではないか! 話の中にすううと入っていくことができる。吸い込まれるのだ! 武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり。
国木田さんの文字は綺麗です。読んだあと僕も武藏野の美しさに感動され、行きたくなった。
学生時代読んでなかったので、読んでみたけど面白くなかった。
まるで独歩が隣にいて武蔵野を共に歩いているような、そんな当時の息づかいまで感ぜられました。よい話。
英文が出てきた!
武蔵野が国木田独歩の代表作であることは、知識として若い頃から知っていたが、驚きましたよ、こんなにおもしろく読めるとは、自然描写、風景描写だけの文章にグルーヴを感じるとは、新しいとさえ思いました。 不本意ながら手にする事になったスマホで読んだ明治文学、これはファンタジーです。アバンギャルドです‼
杖をたてて倒れた方向に行くのが武蔵野の林の歩き方というようなことが書いてあった記憶があった。文庫本で大学時代読んだ。懐かしかったので、再読。3方向(三条)の別れ道に来た時の話だった。枝の倒れた方に行って、また2方向の別れ道に出くわすらしい。今度は小さい路を選べと言う。そこを行くと古い墓地があって女郎花が咲いていることもあるようだ。何とも幸福な話じゃないか!今日は土曜日。少し春の日差し武蔵野には行けぬが六甲山の森で杖に運を任せてみようか!!