三遊亭円朝作の噺で最高傑作といえば、やはり「牡丹灯籠」ということになっているらしいが、果たしてそうか。 最下層で生きる江戸庶民の過酷な生活を容赦ないリアリズムで描きながら、噺の随所に江戸っ子の善意が仕掛けられていて、最後の目の覚めるような大団円を迎えるこの噺を聞いた後の爽快感やカタルシスからいえば、この「文七元結」は、これはもう「牡丹灯籠」や「真景累が淵」の比ではない。 ごく慣れ親しんできたこの「文七元結」を今回、青空文庫で改めて読んでみて、従来自分が承知していた部分と少し違う箇所があったので意外に感じた。 父親の博打狂いが止まず、家は明日の食べ物にも事欠く極貧状態にある両親を救おうと、娘のお久が、みずからを女郎屋に身を沈めて大金を工面し、その金で親父を立ち直らせようとする場面、確かその女郎屋の名前は、いままで聞いてきた落語では「佐野槌」だったはずなのだが、ここでは「角海老」となっている。 「角海老」とは、これまたリアルな名前だ、確か大塚駅前にもあったぞ。気立てがよくて、とても可愛い子がいた、という話を聞いたことがある、よく知らんが。 さっそく調べたところ、自分が聞いた志ん生や円生、志ん朝ばかりでなく、多くの演者が「佐野槌」で演じているようだ。 どうして円朝の元々の噺から言い換えられてしまったのか、その理由は、判然としないが、あちこち調べていたら、志ん生のこんなエピソードが転がっていた。 話すたびに「佐野槌」だったり「角海老」だったりした志ん生の名言だ。 ❮ああ、あれかい、佐野槌が代替わりをして角海老になったんだから、どっちでもいいんだ❯だとさ。 なんたる柔軟さ。なんたるいい加減さ。 やっぱ、志ん生は、素敵で永遠だ。
ともかくホッとするはなし。いずれも色々思い詰め、思い悩むけれど、しまいに大円団へまとまります。