一体全体 世の中に 懐疑派でない人が いるものだろうか。ちょつとした疑念を 懐くのは ごくありふれた ことだとも思う。あえて 取り上げて 立論すること自体が 四迷みずから 言うところの「急所に当らぬ」机上の空論だと 想ってしまうのである。
作家ならではの視点で書かれた文章だと感じた。
アウトプットもインプットも、別個の人であるから完璧に伝わるわけではないね。本人の頭のうちから手を伝って文字になると、文字になるために削がれる要素があって、さらに読む人によって意味や捉え方が変わってしまう。ということは、これに書いてあることを私は、それはそうだけど、全然理解できてない。それでいてこう長々書くのは失礼なような傲慢なような気がする。
ロックだ
二葉亭四迷の私は懐疑派だ、では文学に対する二葉亭四迷の考えを述べている。賛同しないが、二葉亭四迷の文章は現代語、つまり平成の時代の日本語と変わらぬもの。~だ。とか、~だよ。など、今や関西人も特徴的な~や。を言わず、~だよ。と言う。関東弁が日本全土を席巻し、古式ゆかしき京阪言葉が消え行く。作文が関東弁で書かされて、大学入試初め公式文書は全て関東弁基調の言葉にされては、京阪言葉も危うい。二葉亭四迷の文体がある意味、現代語の骨格となったのか?
ネタバレというほど著者の真意に迫れているか微妙ながら、思うところを書いてみて、ネタバレされた!と怒られないために予防線でマスキングしてもらう、自称懐疑派です。 僕なりに読み取りしたつもりのことを、彼の語り口調の文体を真似て書けばこんな感じでしょうか。 盗賊に追われる話をする者は、怖かったというがそれは追憶なので、聴く者は追体験も共有もできない。できた気になるとしてもそれはズレがあり錯覚だ。 文学や哲学を疑わず舶来の有り難いものとして最初から受容している連中は、人生の機微に触れているとかいないとか、他人の作品に評価を付けたがるが、上記の喩えと似て、人生の実体と小説の指すものをうやむやなまんまで扱ってないか?その小説がちょっと感動的だとして、嘘っぱちの物語が秀逸なだけで、人生の機微になんか触れてないかもしれんだろうが。くたばっちまえ! 文学界のシュンペーターよろしく、二葉亭さんは、創造的破壊でも起きるべき頃合いだと明治末期に喝破していたんですね。次のフェーズが現れる下準備としての破壊、建設的な破壊。 東大以下、権威主義のヒエラルキーがそれの発火を許したのかは、文学史を専攻する方々の分析力に委ねます。門外漢には、それは起きなかったんじゃないのかと懐疑するのですが。(くたばっちまえ?)
小説で真実を書けない、と述べている。例えば、「山にハイキングに行った時、私は雑草の間に僅かに顔をのぞかせた、たんぽぽの黄色い花が忘れられなかった。」という文を書いたとしても、それは真実ではない、という。何故ならその文を書くのは書斎で、その行為は過去の出来事の追想にすぎないから。