かなり以前、ある文学館で「東京ゆかりの文学者たち·明治編 」なるテーマの展示会が開かれたので見にいった。 そこで貰ったパンフレットに硯友社についての解説が、ほんの数行掲載されていたのだが、その要を得た見事な文章に感心して、思わず当日の日記にその全文を筆写しておいたので、幸い現在でも読むことができる。 たぶん、そのパンフレットには、文の末尾にでも執筆者名が記されていたと思うのだが、迂闊なことに書き漏らした。 まずはその見事な解説を御堪能あれ。 ❮尾崎紅葉の「多情多恨」1896は、死んだ妻のことを思って泣いてばかりいる男の話である。 田山花袋の「蒲団」1907は去っていった女弟子の蒲団の匂いを嗅いで泣く男の話である。 男泣きの物語という点ではよく似ているが、前者は泣く男を作者が面白がり、後者は泣く男に同化して作者も涙ぐむ。 紅葉は批評的であり、花袋は叙情的であった。 ところが紅葉は前近代の文学の掉尾を飾る人であり、花袋は近代文学の出発の合図を出した人である。 とすると何か話が逆みたいな気がしないか。 でも、変は変だが、これがわが文学史の実体だった。 硯友社は自然主義より、ずっと知的だったのである。❯ 筆写しているうちに、文章の運びから、なんとなく執筆者の見当がついてきた、あの人だ。 さて、分かるかな?