著者の生きた時代、ハンセン病は不治の病とされていた。主人公の尾田はハンセン病にかかり施設に入れられたものの、以前のような生活に戻れるとの希望を抱き、そのせいで苦しむ日々であった。 受け入れがたい現状を受容し、その中でどのように生きていくのか、というテーマを感じた。病気の後遺症や精神疾患で苦しんでいる方にはぜひ読んでいただきたい。
癩病の厳しい状況と、生きるということ。生きているということの意味を考させられる。
若くして死に向き合った者としての珠玉の言葉が散りばめられている。絶望は生きる意志の大きさに比例する。死ねない苦しみ。ライ病患者は人間ではなくそれは命だ。しかしライ病者としての生活を獲得する時再び人間として生き返る。筆者は病気が良くならないことは分かっていてもやはり生きてみるべきだとの結論に達した。23歳、若くして亡くなられた筆者に思いを馳せずにはいられない。
過酷で稀有な経験を元に書かれた私小説であるからこそ、そのテーマは極めて明確で 逃れる事すら出来ない深い絶望に対した時に人はどのようにして生きようとするのか。 おそらく北条はそれを文学の世界に強く見ていたのだろうと感じられた。
23歳の若者が書いたものとはとても思えないほどの、静かな凄まじさ。 この視点は強烈であった。 この文章に出逢えた衝撃をどう言い表していいかまだ分からない。 生き延びられたらどんなものを書いただろうと想うと、残念でならない。
絶望。 そして希望。 生きるって何だ。
ハンセン病、「らい」が不治の病だった時代に生きるという選択をした強い二人。そこにあるのは人間ではない、ただいのちがあるだけだ。 差別もあった、死のうと思った。だが、生きてみる。生きているから絶望が生まれる。ならば人間としてではなく、ただのいのちを生きてみよう。ここに脈打つ鼓動を感じていよう。死がじりじりと近づいてくる感覚。生きているから痛むし、傷つく。この瞬間をいのちと言わずに何と言おう。いのちと人間の本質を垣間見た。
生命というものについて考えさせられた。人間として死んでも、生命は死なない。新しい生き方を獲得して人間として復活する。これはハンセン氏病患者だけでなく、あらゆる喪失を経験した全ての人間に当てはまることではないのだろうかと感じた。 考えさせられた深い作品だ
『人間では なくなって、生命が強靭に生きている』 最後まで 読むと この意味が いくらか 解ってきました。