基次郎が ニャンコの 肉球を 愛でて いるのか ニャンコが 作者を 撫で 回して いるのか 判然とは しないところに 興趣が 沸き 起こる。手垢 まみれの 感想が 役にも 起たない ところに 哀しみが 在るように 想えた。
愛ゆえの歪んだ表現技法。こういうのもアリだと思います。
耳のくだりは頷けた。切符のように切ってみたかった、遥か昔。
猫の肉球を 眼蓋に当てる。 変わった嗜好と言わざるをえない。 特に 私は猫好きでもないので それだけに理解は浅いと感じた。
主人公は考える猫の耳を切符切りで切れば、爪を切ればと、しかしある女性の足裏を化粧道具としているのを見て激しく怒る。そして猫を抱き上げその足裏を自分のつむった瞼にあてがう。しかしその猫の足裏の爪は果たして切られていたのだろうか?
キュートアグレッションというやつでしょうか
実際にまぶたに肉球を当ててみると気持ちいです
梶井基次郎の猫愛がつまった作品。最近猫が好きな自分にはたまらなく面白かったです。歪みすぎだろと突っ込みたくなる感覚に「愛ゆえ」を感じてクスッとしてしまいました。 声に出して読んだら楽しそうっ。
残酷な話かと思ったら猫かわゆいで終わった、という感想を読んでどれどれと読みに来た。 猫かわゆいねえ。
物騒な妄想かと思いきや猫かわゆいで終わる(^-^)
めっちゃ共感 まわりに猫の耳噛んだことあるやつ多いんだけどなんでみんな猫の耳噛むの?
猫の耳や爪を自分の生き方に重ねたりする表現が面白いと思いました! 何となくサディズムを感じる作品でした
愛おしすぎて壊したくなる、というのとは違う気がした。 正直理解出来ない。
好きなものや大切なものに、惨たらしいことをしたら──という妄想をついしてしまうのは何となくわかります。 その時の動き、その時の表情、その時の状態が気になってしまうので、想像の上でなら色々なことを考えてしまいます。当然、そんなことはできるはずがないし、そんなことをしてしまえば罪悪感と後悔とで心身が蝕まれてしまうので。 彼の作品を読んでいると、少し懐かしい感覚に襲われます。 緩やかに退廃的で、それでいてほんのりと情熱的な命を感じさせるような、そんな気にさせられるのです。
傷つけ果ては殺したいほどの愛しさ。
このような動物虐待助長に繋がる描写は避けるべきであり、己の好奇心をまたは嗜虐心を満たすためと言っても過言ではない程。極めて悪質かつ酷く、とても読めたものではない このような著作はあまりにも相応しくないと思うのです。 本来ならば星を付けるのにも値しません。
芥川の「悪魔」の感想と似ている。 好きな物に対する残忍性。 ジョンレノンを殺害した犯人は彼のファンであった。大いなる矛盾がこの世には存在する。 子どもの頃だが、猫を飼っていた時があった。雨に濡れてブルブルと震えてる姿が可愛かった。すると、真冬にわざとホースで水をかけた。 いじめの構造も実は愛情の裏返しの場合の方が根が深いような気がする。
この時、すでに基次郎の病状は、かなり悪化してきており、元来愛猫家の彼は。愛猫を撫でながらじっと見つめつつ、愛情に相反するこうしたサディスティックとも言える想像をしていたのではないか。
猫好きにとってはホラー作品。
爪のない猫 あたりが主題なのだろうか? 空想を失なってしまった詩人 のようなもの と言っている この作品はその残酷な「空想」から なりたっている 梶井自身、レモンにしろ何にしろ 突拍子もない空想を信条とする作家なのだから それがなくなったら 死 あるのみだ 天才ほど長生きはしない