闇の中での一挙一動が目に浮かんできます。こういう描写が上手だと思います。
死の2年弱前に書かれた作品ということから、死の象徴のような闇を受け入れてつつあることを細かく描写したのかな?
本を整理していたら、処分し忘れていた受験参考書が出てきた。懐かしいので、開いてみて驚いた。 どのページにも、やたらに線が引かれていて、これでは、いったい、どの部分が覚えなければならない重要な事項なのか、さっぱり分からない。 気持ちばかりが焦って、ただもがき苦しんでいた当時の自分が、なんだか可哀想になってしまった。 それ以来、しばらくは、本を読んでも本文に線を引く気などなくしてしまったが、最近、改めて以前読んだ箇所を確認したいと思ったところ、該当箇所をついに見つけだせず、やはり少しはチェックを入れておくべきだったかと、その利便性を認識し直し、また線を引くことを始めた、 しかし、ひとつだけ自分なりの決めごともつくった。 ひとつの論文なり小説なりの、もっとも重要だと思うところ一箇所だけに線を引く、あるいは、囲むことにしようと。 この梶井基次郎の「闇の絵巻」を読み、躊躇なく線で囲んだ部分はここだ。 《ある夜のこと、私は私の前を私と同じように提灯なしで歩いていく一人の男があるのに気がついた。 それは突然その家の前の明るみの中へ姿を現したのだった。 男は明るみを背にしてだんだん闇の中へ入っていってしまった。 私はそれを一種異様な感動をもって眺めていた。 それは、あらわにいってみれば、「自分もしばらくすればあの男のように闇のなかへ消えてゆくのだ。誰かがここに立ってみていればやはりあんな風に消えてゆくのであろう」という感動なのであったが、消えてゆく男の姿はそんなにも感情的であった。》 自分が静かに闇のなかに消えてゆく姿を思い描く梶井基次郎は、自分が死ぬ時の瞬間のことを、ここで描こうとしているのだなと直感した。 宿痾の肺結核が徐々に悪化し、明るい未来など思い描くことなどできない療養生活のなかで、徐々に減じる限られた時間のなかで、彼が為しうることといえば、たぶん、有り得ないかもしれない未来を語ることなどではなく、いまそこにあるものを精密に観察して描写することだと思い定めたのだと思う。 その思いがただの諦念などでないことは、観察する対象が草花や虫や動物や、あるいは、たとえそれが「死」であったとしても、同じ冷徹な観察者としてなされていることで、十分に理解できる。 この「闇の絵巻」のなかの引用した上記のクダリでも、自分の死について書いたものと憶測させるような重苦しさを窺わせる深刻さなど些かもない。 この観察者としての姿勢を端的に現している一文を「ある心の風景」のなかに見つけた。 「ああこの気持」と喬は思った。「視ること、それはもう❮なにか❯なのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ」
闇の中を歩くことは最初は怖いけれど、実は慣れると楽しいのかも知れないと思いました。何となく、TVで紹介されていた「闇歩きの達人」を思い出しました。
再読して 他にも胆があるのに気が付いた。 柚を檸檬に置き換えると このような感性が 梶井の世界を支えているのかもしれないと思ってしまった。 「闇へ石を投げた。闇の中には一本の柚木があった。石が葉を分けて崖に当った。闇の中からは芳烈な柚の匂いが立ち上ってきた。」
療養地で闇を愛することを覚えた、とある。闇は苦渋、不安、恐怖の象徴だったはずだ!都会でも停電時には闇を経験する。最初は不快な気分だが呑気に構えると安息に変わる。絶望への情熱があれば安堵できるらしい。 しかし、療養地での安堵は闇そのものにあるのではなく、遠くに微かに光る電灯を頼りに歩き夜光虫のように吸い寄せられるその感覚にあるようだ。 希望への情熱なのか? 信仰心があるとすれば、神の導きかも知れない。一つの光が希望を産む。 都会では、無数の電灯の光が夜の街を照らす。焦燥や不安に陥る。闇の中に逃れたい!絶望のドン底こそが希望だ。
闇は好きですか? なぜ、人は闇を恐怖・不安という やうな形容をするのですか? 五感のー要素を失うからですか? 闇は夜だけのものですか? 心にも闇は訪れますか? 見えない方がいい時もありませんか? 本当に彼女の気持ちや態度を知りたいですか? 知らない方が不安ですか? もし、「嫌い」と言われたら、 やっぱり闇の中にいた方が良かったと 後悔しませんか? 本当は闇の中でもがいていませんか? 闇が本当は安心なんじゃないですか? 闇が好きなんですね?
「夜が更けて来るにしたがって黒い山々の尾根が古い地球の骨のように見えて来た」 すばらしい表現だ。
闇の中では色々な感じ方あると思う