荷風の「日和下駄」を読んだあとで、たまたま寺田寅彦のこの「浅草紙」を読んだ。 ただ、荷風のものは、失われゆく江戸文化を嘆きつつの散策を記録した叙情に満ちた郷愁の述懐であったのに対して、寺田寅彦のこの随想は、「科学的考察」の視点を保っている分だけ、冷徹に江戸庶民の叡知を、過剰な思い入れを廃して正当に証し立てることに成功していると言えよう。 江戸庶民は、貧しいながらも、知恵を出して現在の暮らし向きをより良いものにしようと懸命に努めた証しを、寺田寅彦は、この「浅草紙」に見出だしたのだ。 たまたまではあったが、このふたつの随想を同時に読むことができたのは、まさに偶然のなせる幸いであった。 そうそう、こちらは、紙漉きではないが、コンセプトをいつにする江戸庶民のイデオローグから発した奇想、襖の下張りから発見されたかの「いや~ん、ばか~ん小説」もあったではないか。