安吾は 突き詰めれば 文化の 下支えは 真の生活にあると言う。 慧眼(けいがん)である。 「堕落論」と 底流は同じだと 感じた。 嵐山劇場の 便所も 出てきたりして 読みやすいと思った。
坂口安吾は自分のの身の丈からまずは観察する。行動する。そこから西洋知識人の日本文化礼賛の本質を自身の目で見直す。その結果凡人末席に連なるあちきのような無教養な人間は龍安寺の石庭に何か学んだフリをし、祇王寺に白拍子を見たフリをし、鑑真和上のゆかりの唐招提寺ひれ伏すフリをし、薬師寺の荘厳に修学旅行生の寄進はいかほど集まり、東塔の修復費用はすでに集まり、西の京の商売繁盛のたくましさに、天武持統天皇の安らかなる野口王墓の火葬の古墳を飛鳥に想う。 愉快にならねば日はくれぬ。秀吉が織田が頭によぎるが徳川家康はとんと無縁墓地なのはそのせいであるが、ご先祖さまは知恩院ゆかり。南無阿弥陀仏。 変幻自在に生きるのみ。つまり宇多田ヒカル歌う、Be My Last