っぱ坂口安吾好きだわ……。芸術とは魔法じゃなくて生活なんだって部分めっちゃ好き。
2つの論点 ①作家批判か作品批判か、ということ 作家批判をするなら、全作品、小説は勿論エッセイ、書簡、日記、メモ、生立ち、時代背景、その他諸々を知ってから、せめてしろ!ということ 作品批判であれば、例えば「風博士」だけで良い。そこに作者は不要。自由な感想を述べる権利が読者にはある。 誰が書いたかは関係ない。 ②老人の批評の誤謬 老人は懐古主義であるということ 現代に生きられない骨董品 古典や外国文学は全て正しく、現代日本の作品は読む前から否定される。 そもそも書物とは何か?外国の古典であるショウペンハウエルの言葉を借りれば「他人に考えてもらうこと」らしい。 私は、書物は「考えるヒント」であると考える。安吾はそんなことは言ってない!などと非難される筋合いはない。たまたま読んだ「現代とは?」という作品をヒントに自由な発想をしているだけだ。私にとっては正しいのだ!決して、「いいね」をつけてもらおうと思って感想を書いているわけではない。 どんな作家が好きですか?という問いはナンセンスだ。どんな作品が好きか?は言える。しかし、必ずしも共感できるから好きな訳でもない。考えるヒントになるだけだ! 読者は自分の作品を持つべきだ。 自分が常に作家であるべきなのだ。
これを読むと、現代の何もかもが陳腐に思えてきます 人間は存在し続けるけれど、自分はいつかなくなる、良いこというなと思います
「読書は紙を捲ってするもの」安吾の時代は当然のこと。現代は?指をディスプレイの上で滑らしてデジタルの文字を読んでます。YouTubeでは朗読もしてくれます。そんなのは邪道だ!読書ではない!流石の安吾も言いそうだ。「本を読むことは人間として当然のことで、しない輩は猿同然だ!」などと言った命題はほぼ賛同を得られるであろうが、その伝統的概念すら否定してもらわなくてはフェアじゃない。中学生くらいの明らかに学生達が 「俺たちの子供の頃は・・・・・・」という枕言葉で会話している場面に遭遇するものだ。私自身が学生の頃使ってたフレーズかも知れない。保守か革新か?など2者択一という訳にはいかない。時代に乗り遅れた人種もいていいのだ!時代より先に生きたゴッホはどうだ?死んでから評価されるのは名誉か?サラリーマン的に言ったら退職の最後の挨拶を受けて文切型の「君にはもっと働いてもらいたかった。非常に残念ではありますが・・・・云々」若いOLの涙も嘘臭い演出だ!むしろ「暗い青春」という安吾の時代に生きたかった、と思うのは私だけか?
個人的にはこの短い時代批評は好き。歴史と現代の関係を上手く言い表しているように思う。