結局のところ、文学は「人間」を書かなければ意味がない。出来損ないの名人カタギの専門家に、その取り巻きで出来上がった遊園地は、一見華やかで楽しそうではあるが、大文学は生まれそうにないなと感じてしまった。
悪口がスラスラ色んな言葉で出てくるの好き
成程な。と思うと同時に文壇=遊園地の表現に驚きました。 その時代から視れば遊園地感覚だったのかもしれないんですね。
これぞ安吾節 サイコー
作家になる為に、文学サークルに入っても駄目。 らしい。 確かに、漱石や鴎外にしても、新聞記者や軍医という職業が先にあった。 物理学者になるには、靴磨きになれ、とは流石に比喩的表現だが、世間知らずではユニークな発想が生まれない。 AIが小説を書くことは不可能、ということになる。「人間」のみができる業である。しかも、その人間が「何を」書くかが重要で、「どう」書くかという技術的技巧的問題は二の次だ。 テクニックが如何に優れていても内容が陳腐であれば駄作である。 城山三郎はサラリーマン小説の代表であるが、経歴は大学教授で経済学者だ。特攻隊の経験もある。どう見ても、「小説日本銀行」は文学サークル出身だけでは書けない。
会社組織での新人君に対しても同じことが言える。専門性を身につけた、所謂「専門馬鹿」は使えない。例えばそれが機械メーカーだとして、エンジンの仕組みについて得意げに語る輩よりも接待のオススメ店でも多く知っているヤツの方が重宝される。機械に接する時間が長かった者と人間に接する時間に長かった者との違いだ!
『文学の専門家にはなるな』などのほか、短い文章のなかに とても深い言葉が たくさん込められていて 感銘をうけました。 どんな芸術も 人間を描いていることが重要だと思うので。 たとえ どんなに奇想天外なストーリーだったり 宇宙や人間以外の生物体の話であっても 表現するのは 人間だから、とおもいます。