お金持ちになるよりも仙人になるよりも、人間らしく生きる方がよいと伝える話。それにしても龍眼肉というのがわからなかったので調べてみたら、ライチみたいな果物だった。
今まで何度も繰り返し読んできた物語だが、久し振りに読んでみた。 前回読んだ時から少し時間が経過しているせいか、記憶にあるものとは、かなりズレを生じているので、その辺りのことを整理しながら書いてみる。 まず、洛陽の門前に立っていた仙人だが、杜子春に対して三回もチャンスを与えている、いやに寛容じゃないかと思う、やりすぎだ。 一度目に与えた大金のチャンスを杜子春はむざむざ食い尽くし、再び洛陽の門前にたたずむ、 そして更なる二度目のチャンスも、同じように大金を浪費して、また無一文になって、やっと人間に失望するなんて、あまりにも鈍すぎだ、それとも君らはなにか、揃いも揃って同じことを二度繰り返さないと学習できないタイプか、それじゃあ、あまりにも芸がなさすぎじゃないか。 仙人にしても二度目なのだから、もっと違う「試し」を試みるべきだったんじゃなかったのか? 「ここ掘れ」的に言えば、地面に映った頭とか胸とかでも構わないが、例えばね、ここはひとつ下半身なんてのはどうだ、物語の方向性が違ってきてかなり面白くなるんじゃないかな、ほら、何が出てくるか掘りだしてのお楽しみなんてね、ストーリーも活況を呈すると思うけど、どうかしらね? でも、一番の疑問は、これ。 杜子春が、仙人に弟子入りを頼むと、一応了承され、峨眉山の絶壁に連れて行かれる。 そして、仙人が天上へ行っている間は、ずっとここに座っていろと命ずる。 いろいろの魔性のものが、お前をたぶらかしに現れて脅すだろうが、たとえ天地が裂けても決して声を出してはならない。 声を出したが最後、到底仙人になれないものと覚悟しろ、と言い置いて姿を消す。 その後、猛り狂った虎や怒髪天を突く神将が現れて脅かすが、杜子春は一言も口をきかずに堪え忍ぶ。 さらに、閻魔大王まで現れ恫喝するが、それでも黙っている。 ついに、怒った閻魔大王は、畜生道に堕ちた杜子春の、いまは馬の姿に変えられた両親を引き立てて来て、彼の目の前で肉が裂け骨が砕けるまで打ち据える。それはもう凄いんだから。 それでも杜子春は我慢して口を閉ざしていると、そのとき微かな声が聞こえてきた。 「心配おしでないよ。私たちはどうなっても、お前さえ幸せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何とおっしゃっても、言いたくないことは黙っておいで」 その一言で頑なだった杜子春の気持ちはグラッと崩れて「お母さん」と思わず叫んで馬なる母を抱き締める、まさにニーチェの馬だ。分かるだろ。 と、その瞬間、杜子春はやはり洛陽の門前にたたずんでいて、仙人に対している。 そして、仙人は、 「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。お前はもう仙人になりたいという望みも持っていまい」と言う。 最初、黙っていたら仙人にしてあげようと言っておきながら、事がすべて終ってから、あの時あのまま黙っていたらお前を殺していたところだったんだぞ、もの凄いことを言われている。 どちらを選んだとしても結局は「ハズレ」だったのだ、もしかして、これって単なる仙人のペテンだったのではないか。 では、杜子春は、どの時点で何を選択していればベストだったのか。 自分ならこうする、手に入れた大金は床下に埋めて置いて、毎日少しずつ使い、日曜日だけ誰にも気づかれないように、少しだけ贅沢をしながら、笑いがこみ上げてきたら独り肩を震わせて懸命にこらえる。 しかし、マジな話、この「杜子春」という小説は、自分を産んだすぐあとに精神の均衡を崩して、やがて亡くなった生母を思い描いて書いたに違いないと思う。 晩年に堰を切ったように書き出した告白小説めいたものは、幼くして切り取られた自分の半身を取り戻すための、やや遠慮がちではあるが、自己回復行為のような気がしてならない。
わりと爽やかな終わり方で好き
子どもの頃、病気の時に母が読んでくれた記憶があります。人間が成長する過程でとても大切なこと、当たり前のこと、今さらでも感じておくことが必要だと思います。大人になった時分にこそあらためて読んでほしいです。
良き
とても感動しました。ありがとうございました。
仙人を目指す杜子春だが、母の息子へのひたむきな親子愛に、世間の不人情をつくづく思い、自分の生きるべき姿を気付く。芥川の人間道徳観。