他人の評価や評判を極度に気にする太宰が、志賀直哉の本音の一言にプライドを傷つけられ、ほとんど逆上して書いた如是我聞は、読むたびに痛ましい気持ちになります。しかし、喧嘩を吹っ掛けるなら、最初に泣いたりしてはいけません。身贔屓から視野を曇らせてしまった坂口安吾のこの志賀直哉批判もなんだか訳がわからない。自分の内面だけを見極めようとする私小説も、多くの方法のなかのひとつの在り方に過ぎない。どのような方法を駆使しようと、作家にとって目指し極めるものはただひとつ、自らの死を、まさにその瞬間までどれだけ語り尽くせるかにある。志賀直哉には、自らの死とギリギリのところで対峙した城崎にてがあるが、はたして、太宰に匹敵する作品があるかとしばし考えた。
文学は 人間の苦悩によって起きた一つの玩具である。 しかし 志賀は 苦悩なしの健全玩具をつくったという。 なにやら 優等生に問題児が 絡んでいるようでもあり 論点を浮き彫りにするという意味合いで 価値ある立論と 感じた。
苦悩のない文学はつまらない。 読者でもそうなんだから、同業者ならばなお、なんか気にさわるというか、腑に落ちないというか、なんかひっかかるんだろう。
安吾は太宰が絡むといつもこうなる。志賀直哉がつまらないのは、安吾の貶し方が上手いので、あらためて首肯する。太宰はもうヒステリックで子どものように志賀に食ってかかっていた。きっと補完したかったのだろう。 安吾は熱いな~