太宰の弘前の高等学校時代、三代にわたる校長たちの思い出が、いい感じの距離感を保ちながら綴られている。 この「距離感」の感じられる小説は、太宰が精神的に安定した中で執筆できていることが分かるので、変な言い方かもしれないが、読んでいるこちらも穏やかな気持ちになって小説の中に安心して浸り込むことができる。 さて、一代目の校長は、鉢植えの好きな人だが、書いている当の太宰がそれほどの熱意もなく書いているせいか、3人の中では一番粗略に扱われていて目立たない存在になってしまっているが、教育者として最も相応しく立派な人に違いない。 しかし、太宰は、こういう人には興味が持てないのだなということがよく分かる。 最も興味をそそられるタイプが、なんといっても二代目の校長だろう。 政治家になることに憧れているこの校長は、なにを勘違いしたのか、学校の運営をまるで国会のようなシステムに改変しようと先走り、様々のことに手をつけるが、ご丁寧にも政治家もどきの「公金横領」までやらかして送検されてしまう。 しかし、太宰好みなのは、この誇大妄想気味の校長ではなく、悪事露見のあとの親の謝罪現場に立ち合わなければならなかった校長の息子、恥ずかしそうにうつ向いていた青年だったろう。 きっと、太宰が大好きなタイプだったと思うが、その後の行方は分からないとあっさり締めくくる。 この破天荒な二代目校長のドタバタに興味と勢力のすべてを注ぎ尽くしてしまったために、太宰の三代目校長に対する描写もなんだか淡白だ。この校長は物凄く大人しくて内気な人で、これで校長が勤まるのかと思わせて、あっけなく不意に小説は終わってしまう。 やっぱ、太宰は、あのド派手な二代目校長のことが書きたくて、この小説を書いたんだなと思わずにはいられない。 自分的には、三代目の校長のことが気になるから、そんなふうに思ってしまうのかもしれない。 実は自分もこの三代目のように人前でなにかを言うことが、ごく苦手で、同じタイプの「あがり症」の人の話を聞くと、ことさらに関心がわいてしまうのだと思う。 それで思い出した。 むかし、ある人から人前でも上がらない心理的おまじないというのを教えてもらったことがある。 これは、アイリアノスの「ギリシア奇談集」の中にある話だそうだ。 ある若者が議会で演説しなければならないことになって心配していた。 ソクラテスは、彼を激励しながら聴衆の方を指差して言った。 「君はあの靴屋を無知だと馬鹿にしてたな」 青年はうなづく。 「隣の奴はどうだ、卑劣な嘘つきで君はいつも軽蔑してたんじゃなかったか」 そうやってソクラテスは順々にそこにいる連中が実にろくでもない奴らで、君が緊張するような立派な人間など一人もいないことを納得させた。 青年は聴衆を見くだしながら、堂々と演説をやってのけた。 しかしまあ、実際には、そう簡単にはいかないけれどもね。