心を 欣(よろこ)ばしめるものを 見届けるのは なかなか 難儀(なんぎ)で 寓話(ぐうわ)か 神話か よくわからない ところがある。それでも 前半は 詩情溢れ 味わいつつ 読み進むにつれて 至福の 紙背が 伝わってくると 感じた。
天が創造した小さきものたちは、はじめは無邪気であったが、気づけば文明と共に虚飾や無自覚ないい加減さを身に付けてしまう。 それは天の知らぬところでの争いから始まり、敗者は悲劇的な美談として、勝者は勇猛な名誉として流暢に語るほか、中にはわからないまま争いに着いてきた者までいる始末である。 それでも天は争いの痕を治そうと独り伴走するが、小さきものたちの利己的な、あるいは形骸的な振る舞いに煩わされることになる。 そうして、なく声すら産まれた頃とは違う異質となった小さきもの達が、世のために働いた天の倒れた後に身体に登って、自らを天の直系だと、その名を戴いてしまう後半には、やるせなさすら感じてしまう。 しかし一方で、後始末ばかりだった天が憎む様子を見せず、また、小さきもの達が名を望むに至った天への肯定も垣間見える。 最後の最後まで理解し合うことなく伝説という名に振り回される、一見心無い話だが、しかし無自覚でも受け入れる土壌は確かにあるようで、その美徳は物語の美しい情景ととも読者に伝えているように感じた。
魯迅の不周山は神話の女禍について書かれて入るのか?黄河流域の人々つまり、シナ人を創った神様を茶化しているのか?方士とは宝来山へ不老長寿の仙薬を求めた徐福のことか?