「対話させる術」の感想
対話させる術
たいわさせるすべ
初出:「演劇新潮 第二年第四号」1925(大正14)年4月1日

岸田国士

分量:約14
書き出し:その国の一時代の文学が、外国文学の影響を受けたことに於て、明治以後の日本文学ぐらゐ著しい例はあるまい。処で、その影響が、単に思想的内容や、表現の形式に止まらず、文学の本質的審美観念にまで浸潤して、殆ど模倣より脱却し、日本現代文学の一様式として存在の価値を認め得るものに短篇小説がある。これに反して、文学の他の部門、殊に戯曲に至つては(詩の方面は暫く問題外とする)外国劇の影響から殆ど本質的な何物をも摂...
更新日: 2018/03/05
8f51bfdf2872さんの感想

作者は、戯曲はまず、対話させる術が必要。それがなければどんなすぐれた内容でなくても戯曲ではない。という。 いいえ、ひとつとっても色んなニュアンスがある。、そういう、ニュアンスに敏感であること、どう、言わせるかに自覚的であること。これが劇作家に必要な条件である。が、これは外国の作家はすでに当たり前になってるのであり、日本人作家はすでにそこで出遅れてるのだ、、、 つかこうへい、とか、井上ひさし、とかを岸田國士が読んだらどう評価したんでしょうね。

更新日: 2016/03/05
7b24beb875ccさんの感想

日本の戯曲の名作とは何か?作者は?と問われても、思い浮かばないのは確かである。外国のそれはシェークスピアであり、イプセン、ゴーリキ、チェーホフなど。モリエールの作品などは特に読んだものだ。日本文学では対話の技術が欠如している、とのこと。主人公の内面の気持を語ることは多いが、その主人公にセリフを言わそうとはしないのは日本人の性質を示している。無口であることが美徳なのだ!外国映画の明るさに対して日本映画は常に暗い。台詞も少ない。高倉健は銀幕スターで舞台俳優ではない。現代では国際社会の中で日本人として自己主張をしなければならない。先達が苦手としていたことだ。否、自己主張をすればもはや日本人ではなくなるのでは?というジレンマがある。