比較的漢字が少なく、短時間で読めて、しかもタイトルがそれなりに刺激的な作品というのを漁っていたら、この作品に遭遇した。 鈴木三重吉の童話「乞食の子」、作品データの備考欄には、こうある。 ❮この作品には、今日から見れば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。(青空文庫)❯ なるほど、タイトルからして、もう「乞食の子」だからね、さっそく危なくなっている。 今どきズバリ「乞食」なんて、禁句になってんじゃね、という感じか。 よく知らんが。 しかし、構わずどんどん読んでみた。 貴族のお坊ちゃんが、海岸でおやつを食べていたら、みすぼらしい身なりの子供が、物欲しそうに近寄ってきた。 裕福な子供には、この汚ならしい子供が「乞食」だという認識はまだない。ただ「汚ならし」くて、なんか、見るからに自分とはちょっと違う子供だなという程度の認識だ。 だから、なぜ自分が食べているおやつを食べたそうにしているのかが理解出来ない。 だって、お菓子なんか家の中のあちこちにあるだろうから、それを食べればいいじゃないか、とその汚れた子に言う。それとも悪戯でもして叱られたから食べさせて貰えないの? とも訊いてみる。 そうじゃないよ、家にお金がないからお菓子なんか買えないんだよ、とその子は言う。 へえ~、それじゃあ神様にお願いすれば、きっと叶えてくれるよ、と裕福な子が言うと、汚い子は蔑むように鼻で笑う。「なんだって、神様だって~? そんなもの、いるものか!」 汚ならしい子が神などてんで信じてないことを知って貴族の子供は驚き憤慨する、そんなはずはないよ、神様はきっといるし、お願いすればどんなことでも叶えてくれるはずだよ。 「また明日ここにおいで。神様はきっとこの穴のなかにパンを置いてくれているから」と貴族の子供は汚ない子供とサヨナラをして家へ帰った。そして、母親に神様にお祈りすれば、願いが聞き届けられることを確認した。 翌日、貴族の子供は真っ先に海岸に行って穴の中を見てみたが、パンは入ってなかった。そんなはずはない、きっと何かの間違いだと子供が動揺していると、ずっと向こうから、あのみすぼらしい子供がこちらにやって来るのが見えたので、慌てて家から持ってきたパンをその穴の中に入れる。 そして、やって来たみすぼらしい子供に貴族の子供はこう言う。 「ほら、やっぱり神様はちゃんとパンを置いてくれていたよ」と。 すると、みすぼらしい子供は、お前がパンをここに置いているところを見ていたぞ、でも別にそんなこと、どっちでもいいじゃないかと美味しそうにパンに齧りつき、貴族の子供もみすぼらしい子供の満足そうなその様子を見ながら、それもそうだなと納得し、なんだか自分も満足した気分になったりという物語。 貧富の階級意識とか、貧者へ「ほどこす」ことで得る貴族階級の優越感とか、とにかく童話がこんなことまで書かなければならなくなった時代が背後にあった。 この物語が掲載されたのは「赤い鳥」1929年2月号、同じ年に日本プロレタリア作家同盟が結成された、まさにプロレタリア運動の絶頂期。 こういう時期に、童話さえもこんなふうにイビツに歪められ、醜態を曝し、堕落を余儀なくされ、雑誌「赤い鳥」は、ついに休刊に追い込まれた。