いねは、雨にも風にもまいずに育っているがすごいと思いました。 理由は人だったら、まけるからです
雙之川喜1941 雨ニモ負けた 風ニモ負けた 雪ニモ 夏の暑さニモ 負けた ひ弱な体をもち 際限(さいげん)なく強欲(ごうよく)で いつも いらいらと 怒り狂い 自分のことだけを 勘定(かんじょう)にいれ よく見ない よく聞かない なので 分からない そして 忘れる 東に 病気の子供がいても 行って 看病(かんびょう) なんかしてやらない 西に 疲れた母がいても 稲束(いねたば) を負ってやったりしない 南に 死にそうな人があれば 行ってもっと怖がれと言い 北に 喧嘩(けんか)や訴訟(そしょう)があれば 三百代言(さんびゃくだいげん) 弁護士(べんごし)が儲かるから 徹底的にやれといい ヒドリの時は 鼻歌(はなうた)を歌い 寒さの夏は うろうろ と 歩き回り みんなからは テクノボーと呼ばれ 褒(ほ)められもせず 苦(く)にも され ず そういうものにしか 私はなれなかった 自分の 何が悪かったのだろうか 人生(じんせい」の どの時点(じてん)で みずから 気がつけば こんな風にはならないで済んだのだろうかと つくづく 思った 南無妙法蓮華経 (なむみょうほうれんげきょう) 2025 01 22 7 イイネ 7 2024 05 05 46 イイネ 46 2019 10 29 53 イイネ 53 以上
難しい。木偶の坊と呼ばれ褒められもしないのは中々大変な生き方だと思います。そういうところが評価されているのかもしれません。最後にお経があるのは知りませんでした。意味を理解するのは私にはまだ難しいです。
ここに書かれているようなやさしく芯の持った人にわたしもなりたいと思う詩だった。
既読
現代人にも通ずるような「孤独」というものの現れ方がしみじみと思い浮かんできました。
私も病気等を患った時この唄を思い出して頑張って見やうと思ふ
定期的に読んで、自分を省みたい。
これは有名な人宮沢賢治の唄です、なんだか読んだ人の心が力がとんとん湧き出してくるような感じがしてとてもいい唄ですね!
最後の一文にドキッとさせられる。これは何の文章なんだろう、誰のことを話しているんだろう、と読み進めていき、後半はデクノボーとか、あまりいいことを言っていないので、~そんなやつがいた。みたいに締めくくるのかと思いきや。なりたい、と。 今の時代は、働かずお金を稼ぎ無関心を貫きめんどくさいことは避け暑さ寒さを嫌い部屋にこもり、ゲームをして、株などで資産を増やす、そういう人になりたいって人も多そう。
宮沢賢治の,自分の理想が描かれた、良い作品だと思った。
体の弱かった宮沢賢治の人生の理想であると思う。その時、看病してくれていた人のことにも触れた詩だと考えると、また違う見え方ができるかもしれない。
雨にも負けた 風にも負けた 雪にも 夏の暑さにも負けた ひ弱な体をもち 際限(さいげん)なく 強欲「(ごうよく)て゛いつも いらいらと 怒り狂い あらゆることを 自分だけを 勘定(かんじょう)に入れ 良く 見ない 良く聞かない 判(わか)らない そして 忘れる 東に 病気の 子供が いても 行って 看病(かんびょう)なんか してやらない 西に 疲れた母がいても 稲束(いなたば)を 負ってやったりしない 南に 死にそうな 人あれば 行って もっと 怖がれと 言い 北に 喧嘩(けんか)や 訴訟(そしょう)があれば 弁護士(べんごし)が 儲(もう)かるから 徹底的(てっていてき)にやれと言い ひどりの時は 鼻歌(はなうた)を歌い 寒さの夏は うろうろと 歩き回り 皆に デクノボウと 呼ばれ 褒(ほ)められもせず 絶えず 苦にされ そういう者にしか 私は なれなかった 自分の 何が 悪かったのだろう。人生の どの時点(じてん)で 気がつけば こんなふうには 為らないで すんだのだろうかと 想った。 南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)
「そうなりたい」と言う筆者の心の内が書かれていたんですね。 病気と戦いながらも、前向きな心を持っていたことが分かりました。他者を思いやる優しい心を持った強い人だったんだろうなぁ。 メモとして見つかったって事は、元々作品として何かを人に伝えようという目的で書かれたものじゃなくて、本当に思っていたことをただ書いたんだろうけど、今では作品として広く愛されている。とても感慨深いです! 私自身、宮沢賢治のようにはなれないけど、こう言う考え方とかは凄く為になると思いました!
現代人と比べ、剛健な身体を欲っするが物事の欲得を否定した聖者になることを理想としていますね。私も少しは、見習ってみようと心がけたいね。
寡黙さを、知らされ事柄でした。
こういう生き方を目指すことを南無、北に挑戦とかいうのかもね。 プロ日本人からみたら。 南で陽に当たるヌクヌク生活者との断絶。 調和埒あかず。
宮沢賢治先生は、音や擬音を巧みに扱う、音の作家です! ですから、原作の雨ニモマケズでは、この詩をどう発音して読むのか、まで描かれています。 本当の雨ニモマケズでは、”ニモ”の部分は小さい字で表記されており、そこは、小さい声で、絞り出すようにして、読みます。 雨”ニモ”マケズ…、風”ニモ”マケズ…。 …そうすると、東北の人々の訛り、方言で、この詩が読めるのです! 雨ニモマケズは、声に出して、耳で聞いて、音と擬音で”詞”として楽しむことも出来ます。 目から文章を受け取り、東北の情景を思い浮かべながら”詩”として読むこともできます。 ぜひ、詩として、詞として、五感をフルに使って、賢治文学をもっと楽しんで下さると嬉しいです! ……以上、宮沢賢治オタクの岩手県民でした!!