卑屈の肯定のなかから 見事な花が咲くと 太宰は述べる。 確たる作因が 屈折した卑屈の場合でも 作因なしとして 片付けては活けないということか。 言葉の遊びでないとしたら なにやら 実存主義と 少しだけ 関係があるかもしれないと感じた。
文芸時評に対し、反論する必要もなかろう 現代では「いいね」がつくか炎上するかだ マニアだけにウケる小説家でいいのさ もっとも現代ではマニアが一搬化して大人気作家になってしまった 自信もって自分の「自信の無さ」を作品に残せばよいさ
何事にも自信のない生活をしているので 『卑屈の肯定』ということを 考えてみます。
こういう考え方は好きです。真似したいです。