歴史文学か 現代文学かという結論は あまり重要ではなく 共通して言えることは どれだけ 真実を 伝えているかという点にある とする。 つまり 両者は 単なる文学として くくれば良いと言う。
ドストエフスキーが生き返って、自伝を書いてまた死ぬ、という件は面白い発想だ。更に、数多ある他人作の彼の伝記は勿論、本人の自伝でさえ真実を必ずしも語り得ない、という指摘は鋭い。(安吾が書いた)「古都」がそれを証明出来る、と本人の弁。「小野小町」という作品に書かれている小野小町は数多いる小野小町の一人にすぎない。最近では、本能寺の変に関して新説が登場してきた。しかし、誰も正解を知らない。真実を知り得ない。織田信長や明智光秀ですら分からないかもしれない。自分の小学校の時の思い出を語るとしても、記憶力の限界があるので、自分の都合の良いように「歴史」は塗り替えられるだろう。人間は嫌な出来事は忘れたがる習性があるハズだ!ポジティブシンキング!!しからば、歴史(小説)とは何か?フィクションかノンフィクションか?客観性と主観性の違いか?歴史の教科書と歴史(の)小説とは文部科学省が検定するかしないか程度の差なのか?教科書がノンフィクションで小説がフィクションだと誰が決めたのか?南京大虐殺は事実か?客観的に存在するリンゴは何処にあるのか?リンゴの存在は自分の主観による認識にすぎない。あの人の見るリンゴと私が見るリンゴが全く同じに見えると誰が証明できるのか?結局、誰も赤色を説明できないように歴史を説明できない、と思った。その意味で、「ただの文学」と言うのは納得できる。
書くことは無限の可能性がある。