「思索者の日記」の感想
思索者の日記
しさくしゃのにっき
初出:「文芸」1939(昭和14)年2月号

三木清

分量:約4
書き出し:一月五日朝起きると、ひどく咳が出る。烟草で咽喉を痛めているせいだ。おそく起きた朝ほど咳がひどいのは、その前夜おそくまで仕事をして烟草の量を過した兆しである。私の咳はかなり有名で、近所の子供はコンコンのおじさんと呼んでいる。老人臭くていけないが、烟草の量はなかなか減らないで困る。私が外出先から帰って来るときには、家に入らない前に咳でわかる、と亡妻はいっていたし、私が在宅か否かは咳が聞えるかどうかで判...
更新日: 2018/08/13
いちにいさんの感想

東洋人という言葉は何処の民族を指すのかピンとこないが、東洋哲学だとか東洋思想などと言うとき、日本もその仲間に入るのだろう。 つまり、日本と西洋では「死」についての考えが異なるようである。 西洋は死を悲劇と捉える。しかし、日本人は流石に喜劇とは言わないが、死を畳の上の自然で日常的な出来事と考える。日本人にとって死は隣人なのだそうだ。極楽浄土に行くために念仏を唱える。あの世や来世が存在する。 マラソンのランナーズハイの如く、ある年齢を過ぎれば死を怖れなくなる。

更新日: 2016/05/08
芦屋のまーちゃんさんの感想

この本の中で、東洋と西洋での死生観の違いを述べている。特に死に関しては西洋人は悲劇的な事件であるのに、東洋人には日常的な出来事にすぎない。死は本当に日本人にとって身近な存在なのだろうか?現代の日本は長寿国であるので、震災などの悲劇的な犠牲者をどう受けとめるのか?畳の上での死と事件事故での死はどれ程違うのか?日常的出来事とするには「天寿を全うした」時だけではなかろうか?生まれてきて間もなく母の腕に抱かれて死んでいく赤ん坊は悲観的としか言いようがない。それを運命と言えるのか! 極楽浄土を願って念仏を唱える仏教。「あの世」が初めに有りき、なのだ!人は「この世」では救われない所が厳しいのだ。この世は修業の場なのだ。 金持or貧乏、ハンサムorブサイク、健康or病気 人それぞれ修業の場が違うらしい。随分都合の良い解釈だ。 東洋人にとっても死は悲観的以外のなにものでもない。