「生存理由としての哲学」の感想
生存理由としての哲学
せいぞんりゆうとしてのてつがく

――哲学界に与うる書――

――てつがくかいにあたうるしょ――初出:「読売新聞」1933(昭和8)年4月19日

三木清

分量:約4
書き出し:時代は行動を必要とする、あらゆるものが政治的であることを要求している。このときしかし、哲学するということは、およそ人間の生存理由もしくは意義をなし得るであろうか。人間の「レエゾン・デエトル」として、哲学はいかなるものであるべきであろうか。これは現代において、すべての哲学者にとって、最も切実な問題でなければならぬ。哲学が学問としていかなるものであるべきかということも、かようなレエゾン・デエトルとして...
更新日: 2018/10/01
いちにいさんの感想

哲学は何故必要なのか? 役に立つのか? 答えは、NO!であろう 少なくとも、日常生活には不要だ 国語や算数(四則演算)は義務教育レベルは最低必要である。 しかし、同じ意味では哲学は不要だ。 それでは、何故、哲学が存在するのか?特に、日本は哲学に疎い民族で、真の哲学者は日本にはいない、と言われている。生存理由は三木にとっても重要な問題であったのだろう。 哲学には答えが無い 一足す一は二、というような答えは無い。あるのは、テーゼだけで、哲学「する」という「考える」行為こそが「哲学」なのだ!

更新日: 2015/05/25
c09999e93e1aさんの感想

生存理由としての哲学、あるいは根元的哲学と呼んでも近からずとも遠からずだと考えるが、根元的哲学の衰退は、語り尽くされた哲学の歴史に起因するのではないか。この考えは、すでに誰かが唱えていたという経験。どうにかして未説を捻りだそうとして自身の思考から一人歩きする哲学。豊かな時代が失ったものを問う意味を考えさせられた