「日本趣味映画」の感想
日本趣味映画
にほんしゅみえいが
初出:「キネマ旬報」1929(昭和4)年1月1日号

溝口健二

分量:約5
書き出し:今度私が泉鏡花氏の『日本橋』を映画化するに当つて、それが諸々方々から大分問題にされたものであつた。『もんだいに』と云ふと、話しは大きくなるが、鳥渡《ちよつと》した言葉のはしくれにも、『どうだい君、溝口君が芸者物を撮るさうぢやないか。日頃の唯物論は何処へケシ飛んで仕舞つたんだ!』『いや、あの人間は、以前からあゝ云つた下町情話ものが得意なんだ。だから、つまりは昔にかへつたわけなんだ。』と、噂し合ふ有様...
更新日: 2022/04/06
cdd6f53e9284さんの感想

わが日本映画の巨匠·溝口健二監督の模索時代の貴重な文章だ。 それによると、今度(1929年当時)、泉鏡花原作の「日本橋」を溝口健二が撮るということを知った巷の映画通の連中が、うるさく騒いでいるので、溝口健二はその弁明 のためにこの一文を、あえて書いたとある。 なぜ外野が騒ぎ立てているのかというと、 1927年3月の金融恐慌に始まる不況と社会不安は左翼思想を盛んにし、社会主義組織や運動の高揚とともに次第に尖鋭化し、映画界にも左翼イデオロギーを盛ったプロレタリア映画、いわゆる傾向映画の製作が活発になった。 それが、この時のトレンドだった。 溝口健二が激烈なプロレタリア映画「都会交響楽」を撮ったのは、まさにこういう時期だった。 その激烈な暴露性と描写の徹底さで検閲官に目をつけられ、たちまち公開保留となって内務省警保局に呼び出され、二千フィートもカットされたうえに厳重注意を受けたという経緯があったからだ。 溝口健二という人は筋金入りの左翼思想の持ち主でもなんでもない、機を見るに敏のただの活動屋だ。 シャシンが評判になって客が入るなら、どんな題材でも構わず映画にした。 たとえそれが、プロレタリア映画であろうと下世話な悲恋ものであろうと、当たりそうな題材のエッセンスを巧みに料理して時流に迎合して「それらしく」作ることに長けた天才監督だ。 むしろ、真摯で意識的な左翼映画作家といわれた内田吐夢の「生ける人形」よりも、溝口作品の方が、はるかに優れて過激だと内務省に判断された溝口健二は、呼び出されて厳重注意を受けたのだった。 このエピソードだけでも、溝口がいかに傑出した映画作家だったか分かるが、所詮はただの活動屋にすぎず、それに権威に対しては極めて臆病だった溝口健二は、オカミからお叱りを頂戴し真っ青になって、たちまち方向転換した、 それが花柳界の恋の鞘当てを描いた「日本橋」だった。 しかし、この方向転換が、溝口健二に生涯をかけて描くテーマの重要なヒントとなった。 やがて、名作「滝の白糸」 「折鶴お千」「浪華悲歌」「愛怨郷」へとキャリアを築きあげ、戦後のピークを迎えることになる。 溝口健二の長回しは、フランスの若き映画作家たちに衝撃と革新的なインスピレーションを与え、世界にヌーヴェルバーグ旋風を巻き起こす切っ掛けとなった。 世界のミゾグチである。

更新日: 2020/12/08
19双之川喜41さんの感想

 溝口 監督 の作品を フランスからも 買い付けにきたという。 日本趣味は 浮世絵のみならず 邦画にも及び 日本人の美に対する感覚が 世界でも認められた。 日本趣味は 世界趣味となる。 誇らしい  ことである と思う。